月別アーカイブ: 2015年12月

ただ起きていることの静けさ♪

ただ、シンプルでいること。

それは、自我にとってもしかすると一番難しいのかもしれない。
自我は、意味づけのなかで安心し、ある種の心地よさを感じるものだから。
出来事の理由や原因を知れば、落ち着けると思っているから。
そこに何らかの真実があると疑っていないから。

“私が不注意だったから、こんなことが起きた”
“これは、私のプロジェクトを進めて良いというサインだ”
“すべてはベストのタイミングで起きている”

日常の理意味づけや解釈から、スピリチュアルな意味づけまで、私たちは常に解釈をし続けていますね。

でも、それをちょっと辞めてみて、ただ起きていることにシンプルになってみたら?

エアコンの音がある、終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
部屋に入ってくる日差しがある、終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
風が吹いている、終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

終わりのあとにある空間、静けさ。

それが、本当のあなた。

「すべてはただ起きているだけ」というメッセージ。

起きたことに、これは嫌なこと、素敵なこと、良いこと、悪いこと、悲惨なこと、美しいこと・・・などなど、さんざん解釈をした後で、“でも、すべてはただ起きているだけだ”と、また“考える”。このときメッセージが放つ真実の優しさは、すっかり思考で覆われてしまっている。

そして、

“じゃぁ、私の人生に起きたことはどうしようもないということ?”
“私には何もできないのか?”
“運命論ってわけ?”

とさらに解釈や考えが盛られていく。

でも、そんなたくさんの解釈で出来事が色づけされる前にあるもの。それは、出来事のシンプルなたたずまい。常にある静けさ。

そして、あなたは解釈している方ではなく、その静けさ、受容、愛・・・・。それが本当の自分。

人生というストーリーの中の人物ではなく、ストーリーを通して一貫していつもある静けさ。それがあなたが真に求めて止まないもの。

解釈や意味づけ、理由、理解の中に安住の地を見つけようとするのではなく(ならないから)、それを辞めたときに、ただただそこにあるシンプルさ。

そこがあなたの安住地で、そこに留まってみる。それが真の自分だと分かるまで。

皆様、良い年始年末をお過ごしください♪ (*^_^*)

「ある」に寄り添う♪ 

“いつ個人の感覚がなくなったのですか?”という質問を受けたりします。正直に言えば、いつなくなったのかも分からないし、実際なくなったのかもよくわかりません。また、それが悟った証拠だとも思っていません。

確かに今年に入ってから「私がいない」という非二元のメッセージが脚光を浴びたので、そう質問する人の気持ちは分からないでもありません。

で、私にとっては「私がいない」よりも「私は何か?」のほうが、よりしっくり来るのです。

私の先生(と勝手に決めている)ルパート・スパイラは、「自分が何なのかを忘れなければ良い」と言っていました。また、ニサルガダッタは「あなたは絶対的な存在である、私の言葉を疑ってはいけない、私を信じなさい」という師の言葉を信じて、そこに留まり続けたそうです。

「I AM(わたしはある)」、気づいている意識、純粋意識、存在、全体、これ、どんな言葉でも良いですが、それが自分であるとはっきり認識するということ。

そして、「ある」=「気づいている意識」に寄り添い続けてみれば、気づいている意識とあらゆる経験は決して分けられないことが見えてくるでしょう。

気づいている意識とは単に、経験の別の名に過ぎないことを。

そして、経験と経験されるものも決して分けることはできず、こことあそこという距離の分離もまったくなったとき、すべてが「気づいている意識」の「わたし」となる。

見渡す限りすべては親密なわたしで、「わたし」だけがダンスをしている。

たとえ個の感覚があったとしても、それもまたダンスの現れであって、個とはいえども決して個人的ではない。

イギリスの芸術家、ウィリアム・ブレイクが「どこに目を落としてもそこに神の顔を見る」と言ったように、知らないものは何一つなく、すべて親密な「わたし」で満たされている。

“知らないものは何もなくなりました”というと、ほとんどの人は良く分からないという顔をします。

私と知らないもの、知らない人たちで溢れている世界があるという構図はもはや消え去り、すべては愛、受容である「わたし」だけがある。

それが真に認識されれば、もうそれを忘れることは不可能でしょう。

それは呼吸より身近で、呼吸より努力もいらず、一番自然なことだから。

もし、私が誰かに質問するとしたら、一番聞きたいことは、
あなたは個を超えた愛を知っていますか?
そして、それがあなたであると分かっていますか?
だけかもしれません。(*^_^*)

あなたの経験の中で唯一把握できないけど、疑いようもなくある「ある」という感覚。

個の感覚や分離感があるのかどうかこだわるよりも、ただそこにシンプルにあり続けてみませんか♪

 

死は自我の解放?

今回は、コメントにお返事いたします。コメントをありがとうございます♪ 

自分を無くしてしましたい。という思いを、輪廻・来世を理由にずっと封じ込めてきました。<省略>「私」という感覚は高度に発達した人間の脳が創る幻想であり、時間も幻想なのだから、前世も来世も存在しない。起きていることに意味はなく、生きざま死にざまにかかわらず脳の死は個の消滅・解放である。(消滅したと知る個もなくただ全体があるだけ)とのお話。 長年の死にたい病患者の私にとってそんな魅力的な話はなく、単に「死にたい」が湧いているだけで、自死すら解放の妨げにならないなら、いっそ今にも逝きたいと願い、何処でどうやって死のうかとばかり考える狂気じみた日々が暫らく続きました。家族のことも気にかかりましたが、本当に気にかかったのは「本当に私がなくなれるのか?」でした。<省略>

始めに「本当に私がなくなれるのか?」ですが、コメントの方が思っていらっしゃる「私」がそもそもいないんです。「私がいるという思い込み」があるだけなんです。

でも、おそらく本当に消したいのは、苦しみではないでしょうか? もしめっちゃ幸せだったら、それでも自分を無くしてしまいたい?

とりあえず話を進める前に、脳が幻想を生み出すというのは、私は賛成ではないんです。個人的には量子学をベースにした考え、脳ではなくて「量子フィールドに情報(思い、感情、記憶)がある」という理論のほうがしっくりきています。

実際、量子学と非二元はかなり重なるため、欧米で開催されている科学と非二元の会議でも常にテーマになっています。

また、ブルース・リプトン博士の細胞膜が量子フィールドにあるそれらの情報を受信し、細胞に影響を与えるというリサーチ結果を出していますね。現在、その理論が他のリサーチとともに主流になりつつあるようです。→☆

であれば、臓器移植でドナーの記憶や思いを持つようになる人がたくさんいたり、臨死体験があったり、セラピーをやっていて年中勝手に前世が出てくることにもうなずけます。

で、この理論をベースにすれば、肉体は死んでも個の情報(個の思い、感情、記憶)は残るんです。トラウマのショックや傷ついた思いなどすべて。その集合した人類の情報をユングは、集合的無意識とも呼んでいます。

ので、本当に私は消えるのか?という問いを勝手に、本当に苦しみはなくなるか?に変えると、その保障はないかも~~ということです。

いわゆる多くの人が思っている「私」とは、体と思いと感情の集積に「それが私である」「自分である」という思い込みがくっついたもの(=自我)ですね。

でも、そこに主体、選択者、行為者はいないんですね。よ~く観察してみれば、思いは勝手に湧き、体は勝手に動いているはずです。

そこに物事を決めたり、選んだり、何かを起こしている主体、行為者はいないはずです。こっちにしようとか、そういった数々の思考があるだけで、それらの思考も誰の意図もなく、勝手に沸いているだけです。

しつこいようですが、こういう話をただ概念で捉えると、ほぼ間違いなく誤解、勘違い起こりまくりです。

ので、徹底的に観察してみてください♪ 

で、そもそも苦しみが生まれる理由とは、「個の私がいる」という思い込みに始まって、あらゆる思いを信じ切っているからです。

となれば、問題は「(個の)私がいる」という思い込みです。ですから、消滅させたいのなら、肉体(脳)ではなくて、思い込みを消滅させれば良いんです。

でも、その思い込みには、長年刷り込まれた収縮したエネルギーがしっかりあるために、超リアルでとても思い込みとは思えませんよね。

しかし、その収縮したエネルギーがなくなれば、思い込みを支えるものもなくなり、それを一般的に「解放」と呼んでいるんですね。

さて、カウンセラー&セラピストの身としては、「なぜそんなに死にたいのか?自分を消したいのか?」というところにどうしても興味が行ってしまいます。

お話をさせて頂かないとそのへんの事情は分かりませんが、長年死にたいと思っていらっしゃったということは、逆に言えば深いレベルでは「生きたい」という思いも強いはずです。

または、生きるためにすごく欲しい何かがあるというか。なぜなら、生きていても、死んでいてもどっちでもいいや~と本気で思っていたら、そんなに「死にたい」病にはならないからです。どっちでも良いことに私たちは囚われませんが、大切だと思うと囚われますよね。

ですから、本当は生きる何かをすごく求めているはずなんです。でも、それが手に入らない、生きることを支えてくれる何かがないといった「思考」を信じてしまい、それが紛れもない事実だと思ってしまったとき、私たちは死にたいと思ってしまうんですね。

話を戻して、

前世も今世も来世もすべて壮大なストーリーであって、ここに取り上げたコメントの方の苦悩もすべてストーリーです。だからたいしたことがないという意味ではなく、真に理解されれば大きな救いとなるでしょう。

起きていることのすべてなにもかもが、ある意味ストーリー以前でもあり、すべてがただ起きています。

真のあなたは、それらのすべて気づいていて、そして隅々まであなたです。

言葉を超えて、思考を超えて、ストーリーを超えて、

すべてが理解不可能だけど優しくて、

あぁ~~、(*^_^*)