今更ですが、私の本職はカウンセラー&セラピストで、自他ともに認めるセラピーおたくです。なので、これまでに自分を見つめて、癒すという作業を山ほどしてきました。その中には、かなりの数の前世も含まれます。
で、悟りの一瞥体験後、アジャシャンティやルパート・スパイラといった覚者の本を読んだり、セミナーなどにも出かけると、「自己は存在しない」とか、または「自分の本質」が分かっても、自我への同化から真の自分への移行はたいてい少しづつで、そのプロセスに終わりはない、だから、自分を自我の夢に戻してしまう、ビリーフや感情を見つめて、解体する必要があると言っているのです。
なんだ今までやってきたことを続けるだけじゃないか、と当時は少しがっかりしましたが、今はとっても納得。
どれだけ本質が見えたところで、それで体、思い、感情が消えていくわけではありません。それらへの同化はなくなりますが、思いも感情もしっかり起こり続けます。なので、つい同化してしまう思いや感情にワークするのは、とても役に立つんですね。また、思いや感情をきちんと見つめていないと、たいていそれらに振り回されてしまいます。
そうすると、ありがちなのは例えば、「自己の不在」を頭で理解しようとしてしまうとか、知らずのうちに「非二元教」にはまってしまうとか、または自分なりの「悟り説」ががっちり出来上がってしまったりなどです。
で、自分がそうしていることにすらも気がつかないものです。
あっ、話が逸れました。
で、非二元のセミナーなどに行くと、前世の癒しなどという話なんて、とてもできる雰囲気はないのですが(それはそれで楽しいです)、私は密かに役に立ったなぁと思っているのです。
なぜなら、私の中にあった大きくて根深いセルフイメージは、二つの過去生のトラウマから出来上がっていたからです。コアのセルフイメージとは、単に思い込みだけではなく、感情や体の感覚がどっしりくっついています。
ここからある意味本題です。
自己の不在とは、考えでも説でもなく、明白な事実です。
体はあるし、思いもあるし、感情もあるし、衝動もあるし、興味や嗜好も、性質や性格もあるけど、それらを所有しているはずの「私」はいないんです。シンプル。終わり。
ただ、私たちはこれらの感覚や感情がとてもリアルなので、これらが自分だと思っているわけです。
ということは、私たちは普段「私の思い」、「私の感情」と言いますが、実際は「私は思い」、「私は感情」になってしまっているのです。
人によって、思考に強く同化する人、感情により強く同化する人、または体の感覚が一番強い人など、いろいろでしょう。なんにせよ、自我は、何かに同化していないと機能できないんです。
ところが、癒しのワークでセルフイメージが消え、感情や思いを解放していく経験を繰り返していくうちに、あれっ?どれが私?となり、同化力が薄らいでくるんです。同化する先が見つからなくなるというか。ただ、これは潜在意識の深いレベルでのワークでないとそうなりません(理由は書くと長くなるので、またいつか)。
同化するものがなくなったとき、残っているのは「純粋にある」だけの真の自分、本質しかありません。
ただ、もちろん架空の自我は、大急ぎで新しいセルフイメージを探してきます。「癒されて楽になって進んでいる私」とか。
なぜなら、思いやイメージなどに一切頼れない世界というのは、自我にとってあまりに未知すぎるからなんです。また、すべてのこと、今まで自分が知っていること、慣れた感覚、または自分の夢などなど、すべてをあきらめることだと解釈するため、ものすごい恐怖や執着や抵抗やらが沸いて来ます。
さて、自己の不在を書きながら、自分を癒すセラピーが役に立つという話は、明らかにパラドックスです。でも、このパラドックスは永遠について回ります。
なので、考え過ぎずに興味や好奇心の赴くまま、自分に役立ちそうなものをいろいろ試してみても良いかもしれません。それにとりあえず楽になっていくことは、悪くない話ですよね♪
PS:念のため癒しのワークが悟りに必要ということではありません。あくまでも個人的に役に立ったという話です。