月別アーカイブ: 2015年1月

悟りと癒しと自己不在

今更ですが、私の本職はカウンセラー&セラピストで、自他ともに認めるセラピーおたくです。なので、これまでに自分を見つめて、癒すという作業を山ほどしてきました。その中には、かなりの数の前世も含まれます。

で、悟りの一瞥体験後、アジャシャンティやルパート・スパイラといった覚者の本を読んだり、セミナーなどにも出かけると、「自己は存在しない」とか、または「自分の本質」が分かっても、自我への同化から真の自分への移行はたいてい少しづつで、そのプロセスに終わりはない、だから、自分を自我の夢に戻してしまう、ビリーフや感情を見つめて、解体する必要があると言っているのです。

なんだ今までやってきたことを続けるだけじゃないか、と当時は少しがっかりしましたが、今はとっても納得。

どれだけ本質が見えたところで、それで体、思い、感情が消えていくわけではありません。それらへの同化はなくなりますが、思いも感情もしっかり起こり続けます。なので、つい同化してしまう思いや感情にワークするのは、とても役に立つんですね。また、思いや感情をきちんと見つめていないと、たいていそれらに振り回されてしまいます。

そうすると、ありがちなのは例えば、「自己の不在」を頭で理解しようとしてしまうとか、知らずのうちに「非二元教」にはまってしまうとか、または自分なりの「悟り説」ががっちり出来上がってしまったりなどです。

で、自分がそうしていることにすらも気がつかないものです。

あっ、話が逸れました。

で、非二元のセミナーなどに行くと、前世の癒しなどという話なんて、とてもできる雰囲気はないのですが(それはそれで楽しいです)、私は密かに役に立ったなぁと思っているのです。

なぜなら、私の中にあった大きくて根深いセルフイメージは、二つの過去生のトラウマから出来上がっていたからです。コアのセルフイメージとは、単に思い込みだけではなく、感情や体の感覚がどっしりくっついています。

ここからある意味本題です。

自己の不在とは、考えでも説でもなく、明白な事実です。

体はあるし、思いもあるし、感情もあるし、衝動もあるし、興味や嗜好も、性質や性格もあるけど、それらを所有しているはずの「私」はいないんです。シンプル。終わり。

ただ、私たちはこれらの感覚や感情がとてもリアルなので、これらが自分だと思っているわけです。

ということは、私たちは普段「私の思い」、「私の感情」と言いますが、実際は「私は思い」、「私は感情」になってしまっているのです。

人によって、思考に強く同化する人、感情により強く同化する人、または体の感覚が一番強い人など、いろいろでしょう。なんにせよ、自我は、何かに同化していないと機能できないんです。

ところが、癒しのワークでセルフイメージが消え、感情や思いを解放していく経験を繰り返していくうちに、あれっ?どれが私?となり、同化力が薄らいでくるんです。同化する先が見つからなくなるというか。ただ、これは潜在意識の深いレベルでのワークでないとそうなりません(理由は書くと長くなるので、またいつか)。

同化するものがなくなったとき、残っているのは「純粋にある」だけの真の自分、本質しかありません。

ただ、もちろん架空の自我は、大急ぎで新しいセルフイメージを探してきます。「癒されて楽になって進んでいる私」とか。

なぜなら、思いやイメージなどに一切頼れない世界というのは、自我にとってあまりに未知すぎるからなんです。また、すべてのこと、今まで自分が知っていること、慣れた感覚、または自分の夢などなど、すべてをあきらめることだと解釈するため、ものすごい恐怖や執着や抵抗やらが沸いて来ます。

さて、自己の不在を書きながら、自分を癒すセラピーが役に立つという話は、明らかにパラドックスです。でも、このパラドックスは永遠について回ります。

なので、考え過ぎずに興味や好奇心の赴くまま、自分に役立ちそうなものをいろいろ試してみても良いかもしれません。それにとりあえず楽になっていくことは、悪くない話ですよね♪

PS:念のため癒しのワークが悟りに必要ということではありません。あくまでも個人的に役に立ったという話です。

 

時間という幻想

幻想の最もリアルなものの一つは、時間があるということかもしれません。

でも、誰も過去を経験したことがなく、また誰も未来を経験したことはないんです。

過去と未来はいつも「今」のなかにイメージとして存在しているだけですね。

イメージとは思考活動です。そして、思考はいつも過去や未来に飛んでいます。

でもでも、私は確実に赤ちゃんから大人へ成長した。私は東京からロンドンにフライトした・・・。時間の流れ、そして空間は絶対存在する・・・と多くの人は思うでしょう。

では、もう一度。

今以外を経験したことはあるでしょうか?

赤ちゃんから大人へ成長した、東京からロンドンにフライトしたという経験は、どこで起きているでしょうか?

「今」以外でそれらの経験をしたことはあるでしょうか?

体に同化し、体が自分であると信じ込むことで「体の変化」という時間が生まれます。

また、体に同化していれば、AからBへ「体が移動」したことが空間と時間の証拠となります。

多くの人は、体に個人の意識がくっついているという認識を持っています。

しかし、真実は「無限の気づきの意識」の中に体が現れているのです。

変化した自分の体や顔、体が移動するという感覚、飛行機の音、視野に入ってくる風景などなどではなく、それらに気づいている意識のほうに注意を向けてみませんか?

無限の気づきの意識に深く寄り添ったとき、真のあなたは不変であり、どこにも移動していないことがきっと見えてくるでしょう。

時間も空間もない「今」のなかであらゆる現象が起き、消えていきます。

真のあなたは、幻想の時間と空間を旅している個人ではなく、この無限の気づきの意識(気づきの存在、生命、神、ワンネス、etc)そのものなのです♪

 

 ☆新しい動画を追加しました。

スピリチュアルな夢から覚めてみたら・・・

“私は本当は魂の存在で、この世には魂の成長のために生まれてきた・・・・”という「スピリチュアルな夢」を長く見ていました。本にも書いたし、ブログで発信もしてきました。

でも、4年前の一瞥体験で、それも夢に過ぎなかったと知ったとき、なぜかショックよりも大きな安堵感に包まれました。

なにかをする必要は、まったくなかったのです。自分を成長させるとか、人生をうまくやっていくとか、なにも。真の私には見事にどうでも良いことでした。

私が崩れた人間関係を修復しなければ、私が頑張って、ビジネスをもっと成功させるのだ、私がもっと愛ベースにならないと、私の魂はちゃんと成長しているのか・・・・、

そんなふうに、私がやらないといけない・・・、と深いところで毎日思っていたことに気づいたのです。生きるということは、“私”が何かすることだと。

なのに、実際は「私不在」ですべてが起きていて、そして織り成すストーリーは、真の私のなかで一瞬、一瞬に移り変わり、消えていき、そして「なんにも起きていなかった」のです。

はぁ~~、脱力。

あっ、だから、世の中の不幸に目をつぶっても良いという話ではありません。

不幸なストーリー、それに心を砕く人々のストーリー、あらゆるストーリーが起こり続けます。

真のあなたは、あらゆるすべてのストーリーそのものだという話です。

川が流れていくように、人生も流れ続けます。それがものごとの生業ですね。

だから、流れに逆らい、人生に背を向ければ、向けるほど、起きていることを嫌がれば、嫌がるほど、苦しみも大きくなっていくでしょう。自分のなかに沸いてくる思いや感情に抵抗し(抑圧し)、出来事に抵抗し、社会に抵抗し、どんどんしんどくなりますね。

でも、もちろん“無駄な抵抗はやめろ”とか、“起きていることをすべて受け入れよう”という話でもありません。

すべての中心だと思っていた「私」が実は存在しない、という真実に目を向けてみませんか?

すると見えてくるのは、あらゆることがただ起きているというシンプルな事実だけ。

川が流れるように、人生が流れていく。

そして、真のあなたは川そのもの、生命そのもの。

だから、深くリラックスして人生を信頼できるという話なんです。

 

PS:この世を愛するように、スピリチュアルな夢も夢として心から楽しみ、愛し、大切にしています。 

輪廻

思いがあって、感情があって、体があって、多くのストーリーが生まれる

世界があって、歴史があって、様々な事件、出来事がある

個人の歴史、国の歴史、人類の歴史、地球、宇宙の歴史

そして、ストーリーは輪廻という輪の中で過去から未来へ永遠と続く

でも、そのなかに「わたし」が存在したことはなく、

「私不在」のまま輪廻の輪は回り続ける

真のあなたは、輪廻の中を歩む幻想の「わたし」ではなく、輪廻そのもの、生命そのもの

そして、あらゆるストーリーを通して不変に存在している「気づきの意識」そのもの

あなたの中に宇宙が生まれ、人類が誕生し、ストーリーが生まれる

でも、あなたは一度も生まれたことも死んだこともない

悟る前に鬱、悟った後も鬱

「悟る前に鬱、悟った後も鬱」(by アントニー・デ・メロ

この言葉は、悟りへの幻想を打ち壊すためにしばしば引用される言葉です。悟れば、愛と平和しか感じのだろう、だから、苦しみや嫌な気持ち、まして鬱なんてまったく感じないはずだ・・・。

この話を悟りのセミナーでしたときに参加者から、

“自己の本質は愛や平和なのだから、その人は悟っていないということではないですか?”

という質問をもらいました。

実を言うと私もそんな勘違いをずいぶん長く抱いていました。

でも、愛や平和とは、ネガティブな感情や状態がないという意味ではないんです。

愛は、鬱があることを受け入れ、鬱のままでいることを許しているんです。

そして、鬱をなくそうと戦わないからそこに平和があるんです。愛は、鬱と永遠の平和協定を結んでいるんです。

苦しみは、鬱を排除しようと抵抗したとき、なくそうと戦ってしまったときに生まれるんですね。鬱=苦しみではないのです。

鬱と戦わずに受け入れて100%向き合い、寄り添ってみたときに、はじめて「鬱」というレッテルを貼られ、今まで気づいてもらえなかった様々な思いや感情との「(平和的)対話」が始められます。

そして、対話のすべては真のあなたによって理解され、受け入れられていることを実感できれば、そこに無条件の愛を見つけるでしょう。

なので、

“自己の本質は愛や平和である”

は、その通りなのですが、本当に無条件の愛と出会うために、これを頭の理解や悟りの知識にして欲しくないなと思うのです。なぜなら、自我は必ず自分なりの「愛」や「平和」のイメージを抱き、そのイメージに合っているか、合っていないかと判断し始めるからです。

ということで、すべての知識を横に置いて、“私とは何か?”を見つめてみたらどうでしょうか?

私だと思っているもの、体や思いや感情、これらは何?変化し続けるこれらに本当に実体はあるの?

私が経験していると思っているもの、考えること、見ること、聞くこと、感じること・・・・、これらの経験は何でできているの?経験のすべてを取り去ったら、何か残るの?

経験の主体はどこにあるの?本当にあるの?

経験を直に深く見つめてみませんか? (←ダイレクトパス)

皆様の今年一年が恩寵にあふれたものでありますように!