月別アーカイブ: 2017年7月

はじめに“意識”ありき

量子学と非二元がどんどん同じ言葉を発するようになり、欧米では数年前から「科学と非二元の国際会議」が毎年2回開催されています。

例えば、量子学の父といわれているマックス・プランクは、1931年ロンドンでインタビューされたときに下記のように言っています。

“意識がすべての基礎だと思っています。物質は意識から発生したものであり、意識以前のものを私たちは見つけることができません。私たちが語るすべてのものや、私たちが存在していると思っているものすべては、意識の存在を前提としているです。”

プランクがいう“意識”とは、非二元では、純粋意識(pure consciousness)とか気づいている意識(awareness)と表現され、般若心経的には「空」を指しているのかなと思います。

白状すれば、高校生のとき物理学は学年でビリから二番目の成績で、夏休みの補講に出させられた口です。ので、科学と非二元の国際会議でも、せっかく参加したにもかかわらず、科学者の発表のときはほぼ爆睡状態でした。(トホホ)

それでも、例えば「シュレディンガーの猫」(始めて聞く方はググッてくださいね)などは、非二元的にはキタキターッという感じでワクワクしてしまいます。

ただ、私がいつもどうなんだろうか?と思うのは、どんな量子の実験でも「観測者」がいるということが前提となっている点です。

つまり、個別の観測者の存在を前提にしている限り、どうしても発想や見方が個別の私からの視点になってしまうと思うのです。

分離の視点で分離のない世界を観察してしまうというか・・・・・。

真実は私たちに「私という個別の観察者はいない」と教えてくれています。

個別の観察者の幻想が落ちてはじめて、ほんとうの意味で全体が見えてくる・・。

でも観察者がいないのであれば、じゃぁ、一体誰が窓の外の景色を見ているの?と思われるかもしれません。

この窓から見える景色は私にしか見えないのだから、見ているのは私でしょ?とほとんどの人が思うでしょう。

そこをよく見てご覧~、すべては空っぽだね~と言っているのが、私は般若心経だと思っています。

ですがここでは般若心経には行かず、ルパート・スパイラさんの比喩を応用させてもらいます。

ということで、

Aさんが夜夢を見ていて、夢の中ではAさんではなく、砂漠でさまよっている遊牧民だとします。家族と離れてしまい、恐れと焦りを抱きながらさまよっている・・・みたいな夢。

このとき、砂漠の風景を見ているのは誰でしょうか? 遊牧民の私?それともAさん?

もし、家族と離れてしまった遊牧民が私なのだと完全に信じていたら、砂漠の風景を見ているのは当然自分だと思うでしょう。

だって私、今まさに砂漠にいて、迷っているし・・・みたいな。

ところが実際にはAさんはベッドの中で寝ているだけで、砂漠の風景を見たり、焦りを感じたりしているのはAさんですね。

ちなみに奇跡のコースが、“あなたは一度も暖かいベットを離れたことはない”というのは、このことを言っているのでしょう。

お分かりかとは思いますが、この比喩で、ベットで寝ているAさんは、 “気づいている意識”(純粋意識、空)を指しています。

夢があまりにリアル過ぎて、気づいている意識としての自分はすっかり忘れ去られ、遊牧民の私こそが存在しているのだと疑いなく思っているのが、普通の私たちの感覚ですね。

そして、遊牧民の視点から悟りや真実をあれこれ考える・・・・、でも、遊牧民の私を中心に考えている限り、ベッドで寝ているAこそが実体の自分であるということは思い出しにくいでしょう。

念のため、すべての比喩に限界があるように、純粋意識、空、自己の本質、なんと呼んでも良いですが、それが寝ているわけではもちろんありませんし、Aさんといったような掴めるものでもありません。

話を戻して、“遊牧民の私”は現われれ消えていく(生死)現象の一つです。遊牧民の人生もいつかなくなります。遊牧民の私の思いも感情も情熱、喜び、悲しみ、怒り・・・、すべて現われて、そして消えていきますね。

でも、唯一消えないものは何でしょう?

それはそららに気づいている意識、そして現象が起き続けるという生命のエネルギー。

大海と小波のたとえをするなら、小波は常に変化し、現われては消えていくけど、大海は常にありますね。

話がとっちらかって来た気がしますが、個の私の視線を超えたとき、初めて真実が現われだし、夢である自分は現象だったと見えてくるのでしょう。自分は現象の目撃者ではなく、目撃されている側だったと。

もしかすると、夢の自分のはかなさも同時に感じられてくるかもしれません。でも、そこに愛おしさや美しさも伴って。

桜が満開になってやがて散っていくさまを見るように。

でも、桜を咲かせる生命のエネルギーは永遠。

花と生命のエネルギー、不変と変化、目撃者と目撃されるもの、これらは決して分けることができず、そしてそれが私たち♪

☆☆☆ 重要なお知らせ ☆☆☆

この度、こちらのブログとメインのブログを統合させることにいたしました。せっかくブログ登録をして頂いた皆様には大変申し訳ございませんが、こちらのブログの投稿は今後予定しておりません。宜しければ大変お手数ですが、メインのブログのほうにご登録頂けますと嬉しく思います。たいした数はありませんが、とりあえず過去の記事はこのまま残す予定です。

こちらのブログを始めたときは、ノンデュアリティブームの前ということもあり、多くの人の目につくことはまったく予想しておりませんでした。こっそり気楽に始めたブログでしたが、ご愛読いただきまして心より感謝いたします。

癒しとノンデュアリティのカフェは、まだ続けようと思っておりますので(次回は10月)、そちらでお会いできましたら幸いです♪

☆☆☆ お知らせ・パート2 ☆☆☆

非二元の本を翻訳しました!

「ファンタジーの終焉」~生命の充全さへのいざない~

By ダリル・ベイリー

私たちは生命の息吹、エネルギーそのものであるということが感じてもらえればと思います。理解しようとするよりも、ときどき本を置いてダリル・ベイリーがポイントすることをぜひ見て、感じてみてください♪

☆☆おまけ♪☆☆

 ~「シュレディンガーの猫」の実験をしているオウム~

~絶対的なエゴ~

例えば、非二元の「私はいない」というメッセージで「私がいないのだから、私の苦しみも本当はないはずだ」と思い込むことで楽になろうとしている人をそれなりにみかけます。

また、一瞥体験や真実に目覚めた人でも、真実の「空」の側面ばかりに囚われている人もいるでしょう。ということで、下記のアジャシャンティのメッセージに深く共感したので訳してみました。ぜひお読みください♪

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

真実を理解した段階において最も大切なことは、自分への過激なほどの正直さです。いかにまだ自分が自分を幻想に閉じ込めているのか、いかにまだ自分を夢の状態の重力に引き戻してしまっているのかをほんとうに真剣に見つめてみることです。この段階では、正直さへの深いセンスが必要なのです。

しかし、真実が見えた人にこのレベルの正直さ、そして自分を見つめることの大切さを理解してもらうことは非常に困難です。なぜなら真実を垣間見たとき、エゴの特徴として、それを自分の内側にある分離を隠す理由として使ってしまうからです。

真実へ目覚めた人が私のところへやって来て、私がこのようなことを提案すると、“しかし、それをする私などいないんです。人の中のエゴとは幻想です。内側を見る必要がある人なんて存在しません。何かをする必要などないのです。目覚めの観点からすれば、問題など何もありません。どんなに酷い状態でも目覚めの観点からすれば、問題ではないのです。ですから、何もする必要などありません。もし、あなたが何かする必要があるというのなら、あなたは幻想を見ているのです。”といった返事が返ってくることはよくあります。この手の人に自分に正直になることを理解してもらうことは非常に難しく、このような反応は、まさに目覚めに伴う危険の一つだといえるでしょう。目覚めの絶対的な観点だけを掴み、それ以外のすべてを否定してしまっているのです。

このように絶対的な観点(空の視点)にしがみついてしまった人に、実際しがみついているのは自我であると分かってもらうのは非常に難しいものです。そして、絶対的な観点を使って、自分の中にある目覚めとは程遠いふるまい、思考パターン、感情などを否定してしまいます。

しかし、目覚めを体験した後の旅とは、自分自身に正直になることへの心からの真剣さが必要でしょう。もちろん絶対的な(空の)観点はあり、それは真実であって、問題というものもありません。分離した個人もいなく、見つめる自分というものが存在しないことも真実です。しかし、私はここで自我に向かって話をしているのではないのです。私は自我に向かって、何かをする必要があると言っているのではありません。私は、真実(the reality itself)そのものに直接話しかけているのです。真実が真実に向けて話をしているのです。

私がここで話をしているのは、目覚めの観点にある本質についてです。目覚めの本質は、目覚めていない部分へと向かっていき、そしてまた目覚めていない部分を恐れることもありません。なぜなら、目覚めの本質はなにごとも自分と分離していると見ないからです。目覚めの本質は、すべてを自分と見なし、幻想とか夢の状態という見方さえしません。それはすべてを同等に自分とだと見ているのです。

人間として、これが起きるようにするために、私たちは自分自身に対して真に正直になる必要があります。絶対的な観点を知りながら、今まさにここで自分を見つめるのです。私の中でまだ分離を生んでいるものは何か? 私の中の何がまだ嫌悪や無知、欲へ向かわせるのか? 私の中の何がまだ分離や疎外感、悲しみを感じさせるのだろう? 私の中のどの部分がまだ目覚めていないのだろう?

目覚めの本質は分離のない無条件の愛であるから、私たちの中にある目覚めていない部分から遠ざかることなど決してなく、むしろそちらへと向かうのです。私たちの中にある矛盾、思考パターンやふるまい、または固定観点、痛みから遠ざかるよりも、逆にそちらへと向かっていきます。

歴史を通して多くの真に目覚めた人たちは、すべては善であって、すべては大丈夫だと分かっています。一見どんなにひどい状態であっても、究極的にはすべては良くて、ひどい状態ということさえも良いのです。しかし、このように真実が見えている人たち、完全な融合、何事も、そして誰をも変える必要がなく、すべてが神聖で、そのままで完璧だと見えているまさにこのような人たちが、苦しんでいる人、真実が見えていない人たちへ奉仕する傾向が数多く見られます。

では、なぜ彼らはそうするのでしょうか? もしすべてがこのままで完璧であるのなら? もし何事も変える必要がないのなら? そして、すべてが神聖であって、酷い状況というものさえ良いのであれば、なぜ彼らは、他の人の健康や幸福のために自分の人生を捧げるのでしょうか?

真に目覚めた多くの人たちが他の人たちのために奉仕するのは、絶対的な観点が見えていながらも、その観点に縛られていないからなのです。どの観点にも縛られてないから、彼らは真実が見せる愛へオープンなのです。

真実は、何事にも動揺せず、また戦いもしません。その本質は無条件の愛であり、目覚めが目覚めへと向かうプロセスです。もし、絶対的な観点だけに縛られてしまったら、またもし、私たちが絶対的な観点を人間としての自分を隠してしまうことに使ってしまったら、この愛を見ることは非常に難しいでしょう。

絶対的な観点だけが神聖なのではなく、人間としての私たちも神聖であるから、私たちの人間性も真実によって浸透されていくことを求めているのです。