月別アーカイブ: 2015年10月

ダイレクトパス♪

今回もご質問にお返事させてください♪

一つだけお聞きしたいのですが、ただ起きるだけということは、例えば悲惨な戦争も傍観者のように 、空(くう)の状態を保つという感じなんですかね。 それと、個々の分離していると錯覚している魂は、カルマによる役割を演じている(神の遊び)って感じになるんですか?

どんな感じか?というご質問から、悟ったらどんな感じ?という発想になっているのかなぁ~と思います。

もしそうだとしたら、これは消しゴムでキュ、キュと消してしまったほうが良いかもしれません。(*^_^*)
というのも、この発想だと「ある状態になる」ことを目指してしまいがちだからです。

真実は、真実としてすでに疑いようもなく、自我の何の努力も必要もなくすでに現われていて、ある状態になるとか、ある状態を保つということとは無縁なんです。

ある意味、地球は平らだと思っていたけど、実は球体だったみたいな話です。自分は、思いと感情と体だと思っていたけど、気づいている意識のほうだったみたいな。(=私はいない)

地球は丸いと分かっている人ってどんな人だ?どんな状態になっているのだ?どうしてあの人だけ地球は丸いって分かっているのだ?“地球が丸いと分かっていると、地球の端っこはないと確信している感じですか?”

などと、“その人”や“その人が地球をどう見ているか”に集中するより、地球そのものを自分で見てみたほうが良いですよね。(ちょっと例えに限界がありますが。)

つまり、今、まさにここに起きていることをただダイレクトに見ていくんです。

ということで、いまここになにが起きているでしょうか? 何があるでしょうか?

部屋の中にあるものを指しているのではありません。

今まさに起きていること、あるもの。

見るという経験
聞くという経験
感じるという経験
考えるという経験

経験が常にあることは誰も否定できませんね、
でも経験されていることは、常に変化しています。

そして、

経験が常にあることに気づいている意識がありますね。

でなければ、自分がいることさえわかりません。

では、個人としての自分がいることはなぜ分かるのでしょうか?

体の感覚を感じる経験
体を見ている経験
考えるという経験
そして、
それらに気づいている意識

では、それらに気づいている意識は、一人の思い、感情、体に限定されているでしょうか?

それとも、無限で、完全に静かで、変化がなく、空間とか時間という言葉があてはまらない?

ここが70億人の錯覚なんです。気づいている意識は、自分だけのものだという錯覚。だって、私の思い、私の感情は私しか分からないし・・・と。

でも、よく見てみませんか? 徹底的に。ニサルガダッタ・マハラジの先生が、“「私はある(I AM)」という感覚を掴み続けなさい、根気よく、その感覚から一瞬たりともはなれないように”と言ったように。

「私はある(I AM)」(=気づいている意識、純粋意識、それ、etc)に徹底的に寄り添って、それは単に気づいているだけではなく、自分がそれそのものであることが確信できるまで。

そして、気づいている意識は決して、経験と分けることができず、さらに経験は、決して経験されているものと分けられないと、はっきり分かるまで。

戦争や景色(見られるもの)を見る経験と、そしてそれに気づいている意識の外に持って行くことができるでしょうか? それらを分けることはできるでしょうか?

だから、「I AM」である私は、決して傍観者ではなく、戦争そのものでもあり、また愛する人を亡くして頬を伝わる涙でもあって、突き抜ける悲しみでもあります。

見るものと見られるものは決して分けられない。(=二つではない=非二元)

あらゆることが目撃され、それはあらゆるものであって、そして同時にそのどれでもなく、一切何も起きていない。

頭では決して理解できないけど、いままさに「それ」しかなくて、わたしもあなたも「それ」が創り上げたストーリー。

でも、「I AM」である私は生まれもせず、死ぬこともなく、まったく影響されず、無条件に愛であるまま♪

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ
名古屋も広い会場を用意いたしました。まだお席若干あります。

非二元原理主義

今回もご質問にお返事いたします♪ というか、頂いたご質問をネタにさせて頂きます、のほうが正しいかも。(*^_^*) ご質問をありがとうございます!

”私はいない”と徹底的に発信してるメッセンジャー達は空に同化していて、それ以外の体と思考を私と思っている人達は色だけに同化していて、でもこの世は空即是色 色即是空 でしたね。<中略>何に同化しようともみんな同じなんですよね。どっちか一方に(空or色)疑うことができず同化してるのも間違ってるわけではなく、ただそのように現れてるいるだけなんですね。

まず、ご質問の方も分かっている上で使っていらっしゃるだろう・・・と思いつつ、念のため。

自分という存在があって、何かに同化しているわけではありませんね。

私も「同化」という言葉を使いますし、エックハルト・トーレも「identification(同化)という言葉を使っていますが、いわゆる言葉の限界というもので、正確には同化しているわけではありません。

同化するためには、何かに同化する存在がいないといけませんよね。でも、その存在そのものは不在なんです。空っぽ。

体、思い、感情が「自分である」という思考があるだけです。

そして、非二元のメッセージは、「空と色は二つではない(観察者と観察されるものは二つではない)」ですから、どちらか一方だけに同化するということも不可能です。無理。

ただ、どちらか一方を見過ごしてしまうことは可能です。というか、それは起きていますよね。自我は完全に「空」(=純粋意識、気づいている意識、それ、全体)を見逃していますから。

なので、“私はいない”を発信しているメッセンジャーたちは、「空」の側面を強調しているということです。

また、「色」(=現象)は常に変化し、現れては消えるのに対し、「空」は一切変化せず、時空もなく、常にあり、何ごとにも影響を受けず、すべてを受け入れる無条件の愛です。

なので、そちらを「真の私(真我)」とも言えるでしょう。そういう意味で、自我が「空」に憧れるのも分かるし、「空」のメッセージ自体もとても貴重だと思います。

ところが繰り返しになりますが、「空」と「色」は決して分けられないですから、「空」である一方で「色」である自我もどうしても同時に存在し、二つを分けることはできないんです。

しかし、自我は存在しても「主体」はどこにも存在しないので、やはりすべては創造主なしにただ起きているんです。

溝口さんは思いに寄り添うということを言われますが(←私は思いではなく、感情に寄り添うとお話しています)、いわゆる私がいないと言っている人たちもそれができるのですか?たとえそれができたとしても、それができるというより、それが起こるほうが表現として正しいですか?アジャシャンティさんもシャドウの話をされていますよね。でも、それはそういうことが起きないとできないのに矛盾していませんか?彼の話を読んでいると、あたかも行為者がいるように感じられます。

これは、良い点をついていると同時に陥りやすい点を含んだご質問です。

まず、はい、“それが起こっている”のほうがより正確な表現です。また、あたかも行為者がいるかのように感じられるという観点?も素晴らしいですね。と、同時にある意味落とし穴なんです。(笑)

念のため、“~~と言っている人たちもできるのか?”というように、その人が・・・という発想をしている限り、操作できる主体、実体を持った存在がいることが常に前提になってしまい、メッセージを誤解し続けてしまいます。

なので、できるだけベースを「そういうものは存在しない」にして非二元のメッセージを聞いてみたほうが良いかもしれません。

と、同時にここからがある意味真理の深い部分になるかと思いますが、とはいえ決して分けることができない、「色」の側面を完全に無視することはできないですね。(色即是空)

欧米では、空の側面だけが悟りだという考えに陥っている人たちを「非二元原理主義」と呼んでいたりします。

例えば、思考にとらわれ過ぎていている人には、マインドフルネス的な瞑想も役に立つでしょう。なので、ある非二元のティーチャーは、それをその人に薦めるかもしれません。

しかし、非二元原理主義に陥っていると、“あのティーチャーはあたかも行為者がいるように話をしている、悟っていないのだ”と思ってしまったりします。

ちなみに、ここに「非二元のデートシーン」・・というジョーク動画(英語)があります。非二元原理主義的になった人が、ある女性をデートに誘うシーンですが、“もし、食後に僕のマンションに来てもらえたらと考えているんだけど、じゃなくて、そういう考えがただ起きたら・・・・”などと言ったり、かなり笑える。

とにかく「空」だけが悟りだと思ってしまうと、それは非二元ではなくなります。アジャシャンティも、「私はいない」だけがすべてだと思っている人たちに、まだその先があるのだと導くのはとても難しいと言っています。

その先とは、「空」の視点から「色」をどう体現していくかということです。つまり、自分の中心が空っぽで、分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき、生命=愛が“現象の私”を通してどう現れるのかというプロセスです。

もしかするとその現れが、相手に寄り添い、「あたかも行為者がいる」かのように話し、その人に一番必要なことを「あたかもその人が何かができる」かのように提案することかもしれません。

非二元原理主義に陥っている人などは、それを真理とは違うと言うでしょう。ある意味その通りです。でも、私はそれを「愛」、「親切」と呼んでいるんです♪

☆☆☆ ミーティング ☆☆☆

お陰様で東京と大阪のミーティングは満員となりました。両方とも広い会場へ変更いたしましたので、12日ぐらいまでにキャンセル待ちのフォームを申し込んでくださった方々は全員お席が確保できます。それ以降にお申し込みの方も、それなりにキャンセルはでますので、気長にお待ちくださいませ♪ 名古屋はまだ少しお席がございます。

思考の実体のなさ

今回は、頂いたご質問にお返事いたします♪ ご質問ありがとうございます!

思考は個人からではなく(個人はいないから)全体から沸いてくると。。。 全体から沸いているけど、思考を信じない。。。何故?全体からなのに? 日常で推測、判断をしないといけない場合は何を信じればいいのでしょうか。

私の前回の記事の書き方→「ある意味、たんにどの思考も信じないということなんです。」が誤解を招いたかなと思いますが、思考を信じないようにしましょう~と提案しているのではないんです。

また、判断はしなければいけないのではなく、判断は勝手に起きてしまうものですね。(←自己の不在) 判断しないようにしようとしても出てきてしまいませんか? また、思いは信じられてしまうことで唯一パワーを持ちます。 

で、信じてしまう理由は、思いが何か重要なことを言っている、正確なことを言っている、真実を語っていると思っているからです。

全体からなのに?という意味がいまいち分かりませんので、ごめんなさい、とりあえずスルーさせて頂きます。(全体=高次元みたいな捉え方をしているとか?)

で、ここでの本当のポイントは、「思考は何一つ真実を言い現していない」です。ムージーが「99%の思考はゴミだ、そして残りの1%もゴミ」と言っていますね。ゴミとまで言わないまでも、真実を語っている思考などというものはないし、また思考に真実は分からないんです。

ただ、これを実際に理解することは、私にとっては非常に難しいことでした。たとえば、病気で苦しんでいる家族というのは、私にとって明らかに事実であって、「家族は病気だ」という思いが、真実を言っていないという意味がなかなか理解できませんでした。

思考は、「家族が病気だ」という思いが真実でないのなら、家族は病気じゃないの?という発想に陥ってしまいがちだからです。

また、バイロン・ケイティが株で一億ドル損失したという人に、“それは本当?”と聞いていたのにもびっくりしてしまいました。それほど分かりやすい事実はないじゃないか!と思ったのです。それを言っている思考に真実がないって、どういうこと???

しかし、なぜ分からなかったのかというと、理由はある意味単純で、それはやっぱり思考から抜けいれていなかったからなんです。あぁ、ただそれだけのこと・・・・。自我とはある意味、イコール思考活動とも言えます。ので、自我が活発に動いている限り、つまり、思考と同化している個の私がいる限り、どうしても世の中をすべて思考のフィルターを通してでしか見られません。

つまり、思考を頼りに世界を把握しているのですから、当然思考の実体のなさなど見抜けるはずがないんです。

でも、自己の不在を通して、思考がただ沸いてきては消えていくものだとはっきり見えてくれば、その思考の意味のなさも見えてくるでしょう。そして、解釈したり、レッテルを貼ったり、定義したりしてきた世界は、その力を失い、「あらゆることがただ起きている」ことが浮き彫りになっていきます。

淡々と一つの出来事、そして次の出来事と起きているんです。

また、このように淡々と・・・と書くと、まるでただ傍観しているだけかのようなイメージを持つ方も多いでしょう。

もちろん、そこには様々な思いや感情が沸いてきます。「あらゆること」のうちには思いや感情など現れるものはすべて含まれます。

例えば、悲しいという感情、そこに付随してくる思い、それらも同化されることもなく、でも慣れ親しんだものとして、そこにあることが完全に許されているんです。すべてが、現象のダンスの一部なんですね。(分離していない一部)

そして、真の「わたし」(I AM、純粋意識、気づいている意識、etc)は、これらの観察者でもあるけど、同時に観察されるものでもあります。(=非二元)

つまり、これらの浮かんでくる思い、感情、ストーリーもすべて「わたし」なんです。(と、同時にそのどれでもない)

これを頭で考え始めると、いくらでも疑問、質問は生まれてくるかもしれません。でも、それはおそらく徒労に終わってしまうでしょう。

なので、頭で理解しようとするより、まずは「真の私は何か?」を見ていくほうが早道だと思うのです。それがしっかり体験的に深く理解されていくほど、現れては去っていくものが、いかに実体がなく、空っぽであるかが自然と見えてくるはずです。

ということで、まず変化するものはすべて自分ではないという観察をしてみたらいかがでしょうか? 自分の経験の中で唯一変化せず、ずっとあり続けているものに着目するだけです。

正確に言えば、着目するという言葉もあっていませんが、妥協させてください。私たちは、ずっと見過ごし続けていますので。というのも、ある意味唯一観察できないものだからです。とはいえ、疑いようがなくあるものですね♪

さて、いつの間にか私のブログが質問箱のようになってきました。(笑)

ので、次々に記事でお返事していきます!

 

★★★ お知らせ ★★★

記事で告知をする前に東京と大阪のミーティングは満席となりました。ありがとうございます!!

ブログの記事での告知があるだろうと思っていた皆さん、ごめんなさい。<(_ _)> 私もそんなに早く満席になるとは思っていませんでした。東京のミーティングの部屋を変更いたしましたので、10月12日までのキャンセル待ちの皆様、ほぼご参加頂けます。対応に2,3日かかってしまい、ご迷惑をおかけいたしますが、少々お待ちくださいませ。

名古屋は近日中に募集を始めます♪

お申し込みの皆様、直接にお会いしてやりとりできますことを楽しみにしております♪

 

 

 

 

 

ストーリーが消えたところにあるもの♪

非二元とは、ストーリーがない人間味のない世界である、という誤解がなくもないようですね。

すべては幻想だし、起きることは起きるだけ・・・傍観、みたいな。

自我はストーリーしか知らないので、ストーリーがないと聞くと、自分が知っているすべてのものがない、人間味やドラマといったものがない、なんだか荒涼とした世界を思い浮かべてしまうようです。

でも、ストーリーがないということは、ある意味、たんにどの思考も信じないということなんです。つまり、思考による推測や判断、レッテル貼り、投影などがないということです。

そうすると、あらゆるものが、生命や自然や出来事のすべてが思考の枠から解放され、ありのままの姿を現してくるんです。

つまり、なにもなくなってしまうどころか、生命の息吹や人間ドラマの神秘さがクローズアップしてくるんです。静かに、でも生き生きと。

例えば私の体も、「私の」という思いから解放され、本質のエネルギーに溶け込み、慈しまれ、受け入れられ、自由となります。

私とあなたも、「私とあなた」という思考から解放され、私とあなたは同じもの、本質そのものであることが見えるんです。

そのとき、分離で縮こまっていたハートは開き始め、すべてを呼吸し始めます。優しくシンプルに。

そして、自分がどんなに嫌いだと思う人でも、思考が消え去れば、その人の目の奥に必ず「私」がいるんです。本質のエネルギーがそこに、美しく、純粋なまま。

般若心経が伝えるように、空(本質)と色(現象、ストーリー)は決して分けられず、観察者(主体)と観察されるもの(客体)も決して分けることができません。

つまり、本質である私(I am that I am)は、静であり、動であり、空であり、ドラマであり、あらゆるすべてです。

私が人生のドラマを体験しているのではなく、私は人生のドラマそのものなんです。私はこのとき、動となり、変化、発展し、生命のあふれかえる発露です。

そして、同時に私はなにものでもなく、何も起きていないことを知っています。このとき私は、静であり、平和であり、大いなる癒しなんです。

非二元の真実をこうなのか、ああなのかと思考で閉じ込めてしまう前に、あまりに当たり前の事実からよく観察してみると良いかもしれません。

当たり前の事実とは、なんの努力も一切していないのに、見ること、聞くこと、考えること、すべてが勝手に起きているということ。

そこにそれらを起こそうとしている誰か(主体)がいるのかどうかということ。

もし、どうしても見つからなかったら、そうやって探している自分は一体なんなのでしょう?

という中途半端さで今日は終わりにしちゃおう。(笑)

☆いくつかお問い合わせを頂いておりますが、12月に「ノンデュアリティと癒しのカフェ」と題したミーティングを開催します。詳細は近日中に記載いたします♪