今回もご質問にお返事させてください♪
一つだけお聞きしたいのですが、ただ起きるだけということは、例えば悲惨な戦争も傍観者のように 、空(くう)の状態を保つという感じなんですかね。 それと、個々の分離していると錯覚している魂は、カルマによる役割を演じている(神の遊び)って感じになるんですか?
どんな感じか?というご質問から、悟ったらどんな感じ?という発想になっているのかなぁ~と思います。
もしそうだとしたら、これは消しゴムでキュ、キュと消してしまったほうが良いかもしれません。(*^_^*)
というのも、この発想だと「ある状態になる」ことを目指してしまいがちだからです。
真実は、真実としてすでに疑いようもなく、自我の何の努力も必要もなくすでに現われていて、ある状態になるとか、ある状態を保つということとは無縁なんです。
ある意味、地球は平らだと思っていたけど、実は球体だったみたいな話です。自分は、思いと感情と体だと思っていたけど、気づいている意識のほうだったみたいな。(=私はいない)
地球は丸いと分かっている人ってどんな人だ?どんな状態になっているのだ?どうしてあの人だけ地球は丸いって分かっているのだ?“地球が丸いと分かっていると、地球の端っこはないと確信している感じですか?”
などと、“その人”や“その人が地球をどう見ているか”に集中するより、地球そのものを自分で見てみたほうが良いですよね。(ちょっと例えに限界がありますが。)
つまり、今、まさにここに起きていることをただダイレクトに見ていくんです。
ということで、いまここになにが起きているでしょうか? 何があるでしょうか?
部屋の中にあるものを指しているのではありません。
今まさに起きていること、あるもの。
見るという経験
聞くという経験
感じるという経験
考えるという経験
経験が常にあることは誰も否定できませんね、
でも経験されていることは、常に変化しています。
そして、
経験が常にあることに気づいている意識がありますね。
でなければ、自分がいることさえわかりません。
では、個人としての自分がいることはなぜ分かるのでしょうか?
体の感覚を感じる経験
体を見ている経験
考えるという経験
そして、
それらに気づいている意識
では、それらに気づいている意識は、一人の思い、感情、体に限定されているでしょうか?
それとも、無限で、完全に静かで、変化がなく、空間とか時間という言葉があてはまらない?
ここが70億人の錯覚なんです。気づいている意識は、自分だけのものだという錯覚。だって、私の思い、私の感情は私しか分からないし・・・と。
でも、よく見てみませんか? 徹底的に。ニサルガダッタ・マハラジの先生が、“「私はある(I AM)」という感覚を掴み続けなさい、根気よく、その感覚から一瞬たりともはなれないように”と言ったように。
「私はある(I AM)」(=気づいている意識、純粋意識、それ、etc)に徹底的に寄り添って、それは単に気づいているだけではなく、自分がそれそのものであることが確信できるまで。
そして、気づいている意識は決して、経験と分けることができず、さらに経験は、決して経験されているものと分けられないと、はっきり分かるまで。
戦争や景色(見られるもの)を見る経験と、そしてそれに気づいている意識の外に持って行くことができるでしょうか? それらを分けることはできるでしょうか?
だから、「I AM」である私は、決して傍観者ではなく、戦争そのものでもあり、また愛する人を亡くして頬を伝わる涙でもあって、突き抜ける悲しみでもあります。
見るものと見られるものは決して分けられない。(=二つではない=非二元)
あらゆることが目撃され、それはあらゆるものであって、そして同時にそのどれでもなく、一切何も起きていない。
頭では決して理解できないけど、いままさに「それ」しかなくて、わたしもあなたも「それ」が創り上げたストーリー。
でも、「I AM」である私は生まれもせず、死ぬこともなく、まったく影響されず、無条件に愛であるまま♪
☆☆☆ お知らせ ☆☆☆
ノンデュアリティと癒しのカフェ
名古屋も広い会場を用意いたしました。まだお席若干あります。