月別アーカイブ: 2015年4月

ただ起きているだけ~完全な自由~

 

“すべてはただ起きていて、そこには何の意味もない。”という非二元のメッセージがあります。

自我はおそらくこのメッセージを、“自分の人生に起きることには意味がない”し、または“自分が何をやったところで、ただ自動的に起きているだけで意味がない”と解釈するでしょう。

というのも、自我はなんでもかんでも自分に引き付けて考えるくせがあるからです。あるメッセージを聞くと、速攻でそれは自分にどう使えるか、どう関係するかと考えるくせです。

でも、このときもう一つの大事なメッセージを自我は忘れているんです。つまり、自己の不在です。

自分がいないわけですから、自分の人生もとか、自分が何をやっても・・・という思考そのものが、この意味で無効です。

人生に意味がないだけではなく、自分もそもそもいない・・・。ここで、トニー・パーソンズ(イギリスの非二元ティーチャー)が自らのミーティングで、「ここは自我にとっては最悪の場所」と言っていたのを思い出しました。

思い出しついでに、彼はよく「すべては、wonderfully meaningless(素晴らしく意味がない)」とも言っていました。

たんにmeaningless(意味がない)のではなく、wonderfully(素晴らしく)とつけていることで、意味がないというドライな感覚ではなく、真実の匂いがふわ~としてきたのを覚えています。

実際、意味を求めなくて良い、または意味が分からないというのは、「完全な自由」が持つ別の顔なんです。

意味を求めている限り、それは意味という囲いの中の人生になってしまいます。それがどんなに高尚な意味(素敵な囲い)だったとしても、意味に縛られることは免れず、真の自由はそこにはないんです。

しかし、自我は出来事に意味を求めますね。特に出来事が悲惨であるほど、ただ起きたなんていう虚しい話であってほしくないんです。

でももし、起きた出来事にこれはどんな意味があるのか?どう捉えたら良いのか?といった理由探しや、意味づけをするのを辞めたとしたら、そこにはなにがあるでしょうか?

シンプルに起きていることに意識を持っていけば、そこには、自分の中から湧きあがる感情、衝動、感覚、さまざまな思いがあることが見えてくるでしょう。

ある意味これらに向き合いたくない時に、「これはこういう理由で起きたのだ」などと、頭で納得させて、封じてしまうことも私たちはよくやりますね。

しかし、起きていること、つまり湧いてくる感情などにまっとうに向き合うことで癒しは始まります。そもそも、自我が求めていることは、出来事の意味ではなくて怒りや悲しみが癒されることのはずです。

話を戻して、「意味がある、ない」といった思考を横に置けば、そこには脈々とした生命が相変わらず起き続けているのが見えてきます。

そして、そこに生きる躍動も癒しもすべてあるんです。

もし、徹底的に正直に言えば、私は自分がなんであるのかサッパリ分からず、そしてこのただ起きていることがどういうことなのかもサッパリ分かりません。

でも、それはあらゆる定義、あらゆる意味付けから自由であって、本質のみがある生命に満ちた場なんです。

そして幻想の自我ができるベストは、それに降伏すること。

そうすれば、あとは真実の手の中に落ちていくだけですね♪

 

いまここの誤解~唯一変化しないものは何?~

「いまここ」という言葉を聞くと、自我はたいてい、
過去、今、未来という時間軸なかでの“今”と捉えてしまいます。

なので、一生懸命思考を鎮めて、今という時にとどまろうとする努力を
してしまいがちですね。

でも、もし努力をするのなら、

いまここにいようと頑張るのではなく、「いまここしかない」ということを
体験を通してしっかり知ってみるのはいかがでしょうか?

思考が過去や未来へ飛ばないように頑張るよりも、それらの思考が一体
どこで湧いているのかをきちんと見るんです。

「思考するという経験」はどこで起きている?
過去や未来の思考が湧いてくる場所はどこか?

すべて「今」起きていませんか?

過去に関する思考が沸いているのも今、
未来に関する思考が沸いているのも今、

自分は「今」以外の時を経験したことがあるでしょうか?

正直になってもらえれば、すべての人の答えは「いま」しか経験していないはずですね。

では、なぜあたかも過去や未来といった時間軸があるように思えるのでしょうか?

自我とは、そもそも体、思考、感情・感覚といった常に変化するもので構成されています。

普段「わたし」と捉えているわたしは、常に変化していませんか?
体も毎日少しづつ年を取り、考えや感情も一日のうちで変化しますね。

そして、その変化する自我の意識はいつも、これまた常に変化する事象、状況、出来事、
存在物に完全に向いています。

どんな状況、出来事も始まりがあって、終わりがあります。
また、一見まったく動かないように見える建物や山なども毎日変化していますね。
建物も急に古くなったりしないでしょう。

動きや変化は幻想の時や空間を作り出します。

でも、唯一、変化しないものに注意を向けてみたらどうでしょう?
あらゆるものが変化するなかで、一切変化がないもの。

それは、呼吸よりももっとも身近に、常にあるもの。
これらのすべての変化に気づいている意識、純粋意識、それと呼ばれるもの。

では、気づいている意識は、どれぐらいのスピードで動いていますか?
そこには空間はあるでしょうか?

変化する思考や感情への同化をやめて、つまりそこに意識を向けるのをやめて、
この真の私である、気づきの意識に寄り添ったとき、「いまここ」しかなく、
そこで幻想の時が刻まれていることが見えてくるはずです。

そして、私たちはいまここから逃れることなど決してできず、
またいまここ以外にいたこともなく、そして、真の私とは、
「いまここ」というミステリー、生命、純粋意識そのもの
だったと知るでしょう。

良い一日をお過ごしください♪ (*^_^*)

本当にここにあるもの

私たちは、自分が何かを得る、何かを知る、何かを理解する、何かに到達する・・・、
というパラダイムに慣れ過ぎているせいか、悟りも同じだと思ってしまうでしょう。

私が無心になる
私が頭を空っぽにする
私が“今”に集中する
私が欲を捨てる、
私が思考をすべてコントロールする
私が教えを実践する
などなど。

“私”の努力が必要だと思ってしまいますね。

でも、もしシンプルにただ経験を見つめるだけで十分だったとしたら?

ただただ、今ここに現れ出ていることだけを見つめてみたら?

ここに現れ出ていることを見つめるという意味は、
椅子がある、机がある、コンピューターが机の上にある・・・などと
思考でここにあるものを一つ一つ把握するということではまったくなく、

ほんとうに今、たった今あること、起きていることのすべてを思考を通さずに、
“直接”見るということ。

そこにあるのは、

見るという経験
聞くという経験
感じるという経験
考えるという経験
味わうという経験
匂うという経験

それらの経験なしで、どこに何があるのか、自分はどこにいるのか、何も分からないはずですね。

ここにあるのは経験だけ。

そして、それらのすべての経験に気づいている意識。

経験の前にあるもの、すべての経験とともにあるもの、すべての経験を生み出しているもの

それをただじっと感じてみてはいかがでしょうか?

アイデアでもなく、思想でもなく、教えでもなく、理論でもなく

ただただここに現れているすべてを静かに見つめるだけ、

そこに経験者がいないことが見えてくるまで。

経験者と経験が二つではないと知るまで。

あなたが、一つの大きなダンス、生命だったと知るまで。

シンプルに

ただそれだけ。(*^_^*)