“すべてはただ起きていて、そこには何の意味もない。”という非二元のメッセージがあります。
自我はおそらくこのメッセージを、“自分の人生に起きることには意味がない”し、または“自分が何をやったところで、ただ自動的に起きているだけで意味がない”と解釈するでしょう。
というのも、自我はなんでもかんでも自分に引き付けて考えるくせがあるからです。あるメッセージを聞くと、速攻でそれは自分にどう使えるか、どう関係するかと考えるくせです。
でも、このときもう一つの大事なメッセージを自我は忘れているんです。つまり、自己の不在です。
自分がいないわけですから、自分の人生もとか、自分が何をやっても・・・という思考そのものが、この意味で無効です。
人生に意味がないだけではなく、自分もそもそもいない・・・。ここで、トニー・パーソンズ(イギリスの非二元ティーチャー)が自らのミーティングで、「ここは自我にとっては最悪の場所」と言っていたのを思い出しました。
思い出しついでに、彼はよく「すべては、wonderfully meaningless(素晴らしく意味がない)」とも言っていました。
たんにmeaningless(意味がない)のではなく、wonderfully(素晴らしく)とつけていることで、意味がないというドライな感覚ではなく、真実の匂いがふわ~としてきたのを覚えています。
実際、意味を求めなくて良い、または意味が分からないというのは、「完全な自由」が持つ別の顔なんです。
意味を求めている限り、それは意味という囲いの中の人生になってしまいます。それがどんなに高尚な意味(素敵な囲い)だったとしても、意味に縛られることは免れず、真の自由はそこにはないんです。
しかし、自我は出来事に意味を求めますね。特に出来事が悲惨であるほど、ただ起きたなんていう虚しい話であってほしくないんです。
でももし、起きた出来事にこれはどんな意味があるのか?どう捉えたら良いのか?といった理由探しや、意味づけをするのを辞めたとしたら、そこにはなにがあるでしょうか?
シンプルに起きていることに意識を持っていけば、そこには、自分の中から湧きあがる感情、衝動、感覚、さまざまな思いがあることが見えてくるでしょう。
ある意味これらに向き合いたくない時に、「これはこういう理由で起きたのだ」などと、頭で納得させて、封じてしまうことも私たちはよくやりますね。
しかし、起きていること、つまり湧いてくる感情などにまっとうに向き合うことで癒しは始まります。そもそも、自我が求めていることは、出来事の意味ではなくて怒りや悲しみが癒されることのはずです。
話を戻して、「意味がある、ない」といった思考を横に置けば、そこには脈々とした生命が相変わらず起き続けているのが見えてきます。
そして、そこに生きる躍動も癒しもすべてあるんです。
もし、徹底的に正直に言えば、私は自分がなんであるのかサッパリ分からず、そしてこのただ起きていることがどういうことなのかもサッパリ分かりません。
でも、それはあらゆる定義、あらゆる意味付けから自由であって、本質のみがある生命に満ちた場なんです。
そして幻想の自我ができるベストは、それに降伏すること。
そうすれば、あとは真実の手の中に落ちていくだけですね♪