突然ですが、私という感覚は全員に共通してありますよね。
私がいる、私が話している、私が歩いている、私が・・・・・。
この「私感覚」=「気づいている意識」である、と言ったら驚くでしょうか?
空即是色、空と色は絶対分けられない、空と色の二つがあるのではない(=非二元)ということを思い出してみてください。
ちなみに、二元と非二元というように分けないでくださいね。二つではないと言っている意味が台無しになります。
いまここ、存在のすべてが非二元、空即是色、色即是空です。
ということで、「私という感覚」に戻ると、私感覚の中に二つの違う性質のものがあるはずです。
それは、気づいている意識(空)と気づかれているもの(色)。
もしあなたがメガネをかけていたら、鼻にメガネがかかっている感覚は、気づかれているものですね。
もし、あなたが今ウキウキしていたら、自分がウキウキしていることに気づいていますね。なので、ウキウキ感は気づかれているもの。
または、もし不安を感じていたら、自分が不安になっていることに気づいていますね。なので、不安も気づかれるもの。
悟りって、真実って~~と考えていたら、自分が何を考えているのか気づいていますね。ので、その考えもぜんぶ気づかれているもの。
そうやって見ていくと、私たちが普段主体だと思っている自分は、ぜんぶ気づかれる側のもの(客体)です。
気づくことができるということは、感覚や感情、思い以外の何かがないとそれらがあることが分かりません。
一つの思考が沸いて、一つの思考が去っていったと分かるのは、そこに去らないものがあるからですね。
ずっとそこにあり続けているもの、変化に気づいているだけで、決して変わらないもの。何かが生まれて、消えていくことに気づける意識。
それが気づきの意識で、もう一つあなたの中にある性質です。
思いや感情、体の感覚は現れて去っていくけど、“私という感覚”が去ったことはありますか?
意識と思考をいっしょくたにしている人は多いのですが、自分が何を考えているのかなぜ分かるのだろう? また、どうして変化が分かるのだろう?ときちんと見つめれば、そこに常にあって変化しない何かがあるからこそ分かることが見えてくるはずです。
奇跡のコースに「神の性質とは、純粋な精神であり、変化がなく、形もなく、永遠である」とあります。この神という言葉を気づきの意識と変えて読んでいただければ、同じことを言っていることがわかりますね。
また、奇跡のコースでは続けて、「だからこの世は実在ではない。この世は変化し、永遠であるものがなく、形を持っているのだから」とあります。
気づくことができるものは、すべて現れては消えていきます。しかも、どんなに強固なものに見えても、一瞬一瞬変化をしています。例えば、家具が5年間シンピカで6年目に一気に古くわけではありません。
一瞬、一瞬変化しているもの、次の瞬間に形が変わるものを「実体」と言えるでしょうか?だからこの世も私もあなたも実体のない夢なんですね。
さて、「私感覚」にもう一度戻って、違う言い方をすれば、そこには「気づいている私」と「気づかれている私(自我)」がいます。
私たちの一つの大きな勘違いは、この二つの私をいっしょくたに「私」という一人の個体だと思い込んでいることです。
もっと言い換えれば、変化するほう、気づかれているほうを自分だと思っているんです。
そして、自分の思い、感情、感覚に気づいている意識を個体の意識だと思ってしまうことです。(だって、自分の思いしか分からなくて、隣の人が何を考えているかなんて分からないし・・・と)
個人、個人の分離した意識があると。
では、例え話ですが(たとえ話はいつも途中で限界があるけど)、気づいている意識を大海だとします。そして、大海の中に水槽を入れたとしますね。その水槽には金魚が泳いでいます。
水槽の中の水は大海と分離した水でしょうか?
それともガラスで一見区切られているだけで、実際は大海とつながっているでしょうか?
また、水槽の中の水は大海と違う性質でしょうか?それとも同じ?
水槽の中の水は、水槽の中の金魚しか気づけないかもしれません。なので、一見大海と分離した個の水があるようかに思えるでしょう。
さ~て、これはたとえ話なので、実際にはもちろん水槽のようなガラスの仕切りはありません。でも、大海がどんな小さな波にでもなれるように、その可能性に限界がない気づきの意識がたくさんのミクロ化した意識を生み出すこともできるでしょう。(←最後の一文は私の想像です)
でも、大海がどんな形になっていようと、その性質はまったく同じものですね。小波であろうが荒波であろうが、そこにただあってみれば、大海の自分が感じられるはずです。
気づいている意識もただあってみたとき、どんなに観察しても、そこに何の区切りもなければ、形もなく、そして常にそこにあることが分かるでしょう。
私たちの本質はこの気づいている意識であって、金魚のほうではないんです。
さぁ、ここまでの話だと、気づいている意識と気づかれるものの二つがまだありますね。
見るものと見られるもの。主体と客体。
ということで、いつもの大海と波の例えに戻ります。先ほどの水槽の話はすっかり忘れてみてください。
大海が穏やかな小波になっているとき、その大海という主体が、分離した小波という客体を作ったのでしょうか?
大海は小波にはなれますが、小波を“見る”ことはできるでしょうか?
大海が気づきの意識だとしたら、小波があることに気づいているのは、小波自身?それとも大海?
小波がゆらゆらとしているのを経験しているのは、小波?それとも大海?
自分は小波なのだ!と強く同化すれば、あたかも小波が自分を経験しているように思えるでしょう。でも、自分は大海だったと分かったら、小波の中に誰か経験者はいるでしょうか?
二つの違う角度からの違う例えで、もしかすると混乱してしまった方もいるかもしれません。
でも、一番お勧めは、このたとえ話を読んでじ~っと考えるのではなく、実際に観察してみることです。頭で理解できたと思ったら、たぶん何かが違うでしょう。
自分の中にある気づいている意識と気づかれるものを徹底的に見てみる。思考を一切介さないで。(思考は気づかれる側のほうでしたね)
そして、気づけることができるものをすべて自分じゃないとしたら、残っているものは何でしょう?
その唯一残ったものに、ただあってみてください♪
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