なんだかんだといって、この人生が大切だ。
明日の食べるもの、今月の家賃、
自己の本質とか非二元ではお腹がいっぱいにならない。
自我は私たちにそうささやいて、私たちを夢にとどまらせる。
自我の一番の目的、そして情熱は、もちろん自分の生き残りだから、
世界を見渡せば、自分を守ること、守るために相手を攻撃すること、
そんな自我たちのふるまいで満たされているようにも見える。
なんていったって、私が生き残ることは大切なのだ、
そうでなければ、私は死んでしまうかもしれない。
生き残るために頑張ってどこが悪い。
でもね、と本質はささやく、
明日が不安な時、生きていける術がないように見えるとき、
静かに耳を澄ましてごらん。
人生を捨てようと言っているのではないよ。
よく見てごらん。
“生き残ることが大切だ”と言っているのは誰?
よく見てごらん。
そこにあるのは、「私という感覚」とその思考だけ。
そしてあたかも、その「私という感覚」がそう言っているように見えるよね。でも「私という感覚」をよく見てみよう。
そこにほんとうに「私」はいる? それとも最後まで感覚があるだけ?
「私という感覚」は、体に属しているのではなく、あまねくすべてを包括し、すべてに浸透している。
「私」の中に世界が現れ、「私」の中に世界が消えていく。
それがはっきりしてくるまで静かに存在によりそってみよう。
そう、生き残らなければいけない「あなた」は幻だと見えるまで。
とても健気で、いとおしい幻。
あぁ、でも、あまりに多くの歴史、あまりに多くの感情、願い、望み、絶望、喜び、そして生きたいという思い。
あまりにリアルで幻だなんて言ってほしくない。
もちろんよく分かるよ。あなたを否定しているわけでないよ。
あなたの心の繊細なひだまで、あなたの本質はちゃんと知っている。
あなたが気がつかない自分の心の隅々まで、ちゃんと受容されていて、愛されている。
あなたがどんなに孤独だと思っているときも、
誰も理解してくれないと思っているときも。
なぜなら、あなたの孤独な思いも本質そのものだから。
あなたは幻だということは、あなたはいなくて、神しかこの世に存在していないということ。
だから私が幻だというとき、それはあなたの生き残りは保障されているということだよ。
それが見えてきたとき、あなたはあなたというユニークな人生を今以上にめいっぱい生きて、
そしてあなたはいつも大丈夫だとわかっているだろう。
だから人生がまさに難しい時、静けさの中に本質の自分を見つけ出してみない?