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ほんとうの自分探し♪

死んだあとに意識があるってどうして分かるの?
(死んだあとに意識があるの?)

この質問の前提は、“私は肉体だ”である。

肉体の自分が死んでもその後“私”の意識はあるの?
肉体の自分が死んだら悟れるの?(私は悟れるの?)

私、私、私・・・・・

でも、そもそも肉体の所有者である私がいなければ?
一体、死ぬのは何?

まずは、体の所有者を見つけてみませんか?

体の中に“私”はいる? 探してみよう。
体をどこまで切り開いても臓器や筋肉や骨があるだけのはず。
どこにも“私”は見つからない。

では、沸いてくる思いの中に“私”はいる?
湧き上がってくる感情の中には?
じゃぁ、感情と思いの所有者は?

もし、体と思いと感情を所有する“私”がいるのなら、
探せばすぐに見つかるはず。

体と思いと感情の総称が“私”だと思う人もいるだろう。
でも、それは“会社”や“学校”のように、単に呼び名でしかない。
(会社があるのではなく、建物や人がいる)

もっと実体ある“私”を探し出したいのだ!
だってこんなに強く私がいる感じがするのだから。
探せ!探せ!死に物狂いで!
本当の意味の「自分探し」(*^_^*)

でも、どうしても“私”は見つからない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんなに大切なはずの“私”が見つからない

しかし!ここで大きな疑問が残る。

なぜなら、見つけられないのに“私”は確実にいるからだ。

“私”はここにいて、あらゆるものに気づいている。
肉体の変化や一つの思いが現れて去っていくこと、
ときに感情に呑み込まれてしまっていること。
あらゆることに気づいている。

私がいないのに、一体誰が気づいているの?

あなたも私もずっとそれは、“(個の)私”だという勘違いをしてきた。

だって、私が一人部屋で音楽を聴いているとき、
それを知っているのは私だけだから、
私が考えていることを知っているのは私だけ・・・。

マイワールドに気づいているのは、分離した個のリトルミーだ・・・・。
嬉しくてジャンプしているときも、苦しくて部屋で一人泣いているときも、
リトルミーが気づいているだけ・・・・。

でも、リトルミー(“私”)はいくら探しても見つからない。

あぁ、なんて巧妙な分離の幻想だろう。ずっと気がつかなかった。

どんなに個人的な思いでも、それに気づいているのは、
リトルミーのあなたではなく、大いなるAwareness(気づいている意識)。
あなたはいない。

それをきちんと確立してみよう。
ヒントは“捉えられるものはすべてあなたではない”

呼吸も、瞬きの感触も、背中の温かみもすべてあなたではない。

唯一捉えられないもの。
気づいている意識。それが“私”

そこが確信されたとき、リトルミーの幻想は消えて、
大いなる“私”が明らかになってくる。
“小さな”私ではなく、“I AM(私は在る)” の私

在って、そして気づいている。

底抜けの受容、無音よりも静かで、不変不朽
時空もなく、なのに無限で、あぁ、思考がただひれ伏す。

それがあなた♪ (*^_^*)

PS: 最終的に気づいている私と気づかれているものは、決して分けられないことが見えて非二元(二つではない)の真実ですね♪