一瞥体験よりも求めたいもの♪

一瞥体験に関する下記のようなご質問を頂きました。↓

エックハルト・トール氏もプロフィールに一瞥体験が記載されています。全ての方ではないですがプロフィールに同じような内容が紹介されます。なぜでしょうか?そして経験(一瞥体験)が去った後は?読者や探求者は、必ずこれに引き寄せられますが・・・。

私の場合はすべての始まりであり、発信する中で自然な感じがするからです。(記載しないと何かを隠しているみたいで不自然な感じ)他の方は分かりませんが、それを目指すものとして書いているわけでもないと思います。

一瞥体験に関してある意味危険?なところは、私も見事に陥りましたが、“あの体験をもう一度”となってしまうことです。または “あの状態が続くことが悟りだ”と勘違いしてしまうことです。

せっかく真実を掴んだのに失ってしまった・・・と私は本気で思い込んでしまいました。また、その後人生の意味を見失って、虚無に陥る人も多いですね。

しかし、有難いことにロンドンには非二元のお話会が頻繁にあり、ティーチャー達によって私の勘違いは比較的早く是正されました。

体験というくくりで言えば、一瞥体験もバンジージャンプ体験もある意味で同じです。体験はすべて過ぎ去っていき、一瞬一瞬変わり続け、そして一瞬前にあったものは消えていきます。何一つとどまることはなく、つまり、実体のないものです。

一瞥体験もそうです。始まりと終わりがあります。私の大きな勘違は、必ず変化し、終わりがある経験や状態というものに永遠にとどまっていられると思ってしまったことです。

しかも、分離した個である私が(笑)。ですが、ぜんぶ丸ごと大きな勘違いでした。

というのも、存在の本質は不変であって、失うこともができず、つねにここにあるもので、そして分離した個が決して留まれるものではなく、捉えることがまったくできないからです。

ですので、大切なことは去って消えていく体験ではなくて、

“決して去らないものは何か?”という問い、

そして、

“そもそも体験者はいるのか?”という問いです。

自我は特別な体験、とくに悟り体験のような特別体験に憧れる傾向があります。ですが、もし求めているものが、去ってしまう体験ではなく、不変の真実なのであれば、一瞥体験という遠回りをしなくても良いかなと思います。

ちなみに私の先生であるルパート・スパイラさんは、一瞥体験をしておらず、一瞥体験は目覚める条件というわけでもないんです。

真実はいまここに否定しようがなくすべてに浸透しています。たどり着くものでもなければ、ここにないものを見つけ出したり、得るものでもありません。

なので、探求はどこかに向かうのではなく、いまここへの探求、そして意義ある疑問は、“今ここにある真実がなぜ見えないのか?”でしょう。

このブログでもそこを強調しているつもりではあるんです。ただ、書き言葉に限界がありすぎますが・・・。

とりあえず、体験というつかめるものではなく、あらゆる体験に気づいている、決して捉えることができないもの。いまここでそれを探してみませんか?

 

☆☆☆オンラインお話会について☆☆☆

この度は予想以上にお申し込みを頂き、また動画販売のリクエストもありがとうございます。

動画販売に関しまして、当日参加のようにやりとりができないこともあり、個人的には価格を少し低く設定すべきだ(したい)と考えています。しかし、当日参加できない方も、すでにお振込みを済ませた方も多く、現段階で2種類の設定で申し込みし直して頂くのもかなり煩雑になると判断いたしました。そこで、動画販売の価格に近付けるため、4回のお話会を同じ価格で5回やることに致しました。(*^_^*)

つまり、動画販売もいたしますので、またお知らせさせてください♪

自分への信頼が生まれる場所♪

例えば、
自分の方向性が良いかどうか分からないとき、
やってみないと分からないとき、
他者の評価がいろいろなとき、

世間や人の言葉に左右されず、自分らしく行こうと思えば、
自分に自信を持つ必要が出てきますね。

または結果がすぐに出てこないことを続けるとき、
自分を信頼していないと不安に負けてしまうかもしれません。

基本、人生とはそもそも明白なものや確実なものよりも、
よく分からないもの、不確定な要素の方が圧倒的に多いものです。

でも、自分を信じたり、自分を信頼するのが難しく感じるときってありませんか?

だからここはじっくり座って、自分への自信や信頼がどこから生まれてくるのか、
よ~くよ~く見つめてみたいのです。

不確定なものに自信を持つために・・・・、

一つ見えてくるものは、決して思考から自信は生まれないこと。

思考は不確定なものを確定しようとする衝動がありますね。
でも、どんなに確定しようとも、きっとこうなるという推測や
こうなるはずという期待、またはきっと大丈夫と思い込むなどなど、
どこかウソっぽい自信。

砂の上に立ったお城みたいな自信です。

そこで思考ではなくてハートの中に留まってみる。

手を胸に当てて、思考を静めて、

気がつきましたか?

ハートには思いが存在しないから、時間も空間もないんです。

「いまここ」だけ。

そして、そこにじっといてみる。

もし、ハートに固い感じ、重い感じがあれば、それにただ気づいて、

静けさにただあってみる。

思考は、この先どうなるのだろう?
私のやっていることは正しいのか?
この道を進んで良いのかな?
もうなんだか分からない・・・、

と迷い、不安、混乱の思いを発しているかもしれません。

でも、ハートの静けさにただってみる。

そのうち、ハートの静けさと気づきの意識と生命が一つであると感じるまで。

あらゆるものを動かし、創造し、生み出していく生命

I AMとしての私

そこではあなたのすべてが保障され、生も死もなく、無限の場、

自分を信頼する、自分に自信を持つとは、
生命にゆだねる心のこと、
I AMに降参する真摯さ、

生命の上に立って大丈夫だと知っていること。

不確定な生命の息吹、何が生まれるのか未知が潜む場所、

間違いも失敗もあって大丈夫。

もっと大きな自分だから、

それは本質が支えてくれる自信と信頼♪

 

★★★

オンラインお話会 (キャンセル待ち募集中)

「オープン・アウェアネス・カフェ」

心のしくみや私たちの本質についてのお話し会です。

詳細はこちら→★

悟りへの三段階エクササイズ~ヨガの伝統から~

IMG_0521久しぶりにカシミール・シャイビズムの本(写真)を手に取ってみました。というのも、フェイスブックでルパート・スパイラさんの奥さん(Ellen Emmet)が、非二元とヨガにつての投稿をシェアしていたからです。

投稿によると、ヨガはもともと近代になりまでポーズというものはなく、本来の目的は体を通して本質を理解していく手段だったそうです。私はロンドンで何度かこのエレンさんの非二元ヨガを体験し、ヨガというのに、まったくポーズがないことに最初は少し戸惑いました。

ですが、ある意味とても新鮮で、ただただ体と体の感覚、体と外側の関係を見つめ、境界線が消えていくのが楽しくてたまりませんでした。と、書くと楽しそうに聞こえるかもしれませんが、非常に地味なワークで、自我が“つまらない”、“なんでこんなことやるの?”と騒ぎ出すほど地味です。

実際、エレンさんをご招待してあるグループでやってもらったときは、ほとんどの人が寝てしまいました(笑)。

さて、話を本に戻すと、いかにヨガが非二元の教えそのものだったか、いかに古代からの教えが今に通じて、というか真実のメッセージは変わっていないかがひしひしと分かります。

本の中に制限された意識の自我が、無限の純粋意識そのものの自己の本質を知るには3段階の方法があると書いてありました。

この3段階は、行う人のレベルに合わせるべきだが、とりあえず一番高いレベルから皆初めて、それができない場合は、2段階目、3段階目とやってみると良いと書いてあります。

ちなみに一番高いレベルをsambhavopaya、二番目をsakatopaya、三番目をanavopayaと呼ぶそうです。

で、一つ一つの段階の説明がこの後に続いています。

詳細は書けませんが、一番高いレベルとはなんと「在るにある」という、いつもこのブログで書いていたことでした。(思考は一切横に置いて、自分がいる、ここ、あそこなど、どの思考もすべて横に置く)

もちろん、それはニサルガダッタが彼の師から言われたこと、またルパート・スパイラさんがいつも言っていること(abiding with awareness)で、そのほかの非二元のメッセンジャーたちが言っていることと同じです。

二番目のsakatopayaは、口に出したり、唱えたりできない何かに集中すること。体の変化や思考、感覚など変化する世界の中で気づいている意識を維持していく。

三番目のanavopayaは、体の一部に集中したり、呼吸やマントラ使って心を集中させる方法。

自我的には、おそらく3つ目が一番何かをしている感が強いのでやりやすいでしょう。というのも、自我はどうしても何かつかめるものに集中してしまう傾向が非常に強いからです。

特に瞑想などをしていると、“穏やかな感じ”、“平和な感じ”、“思考のない空な感じ”など、自分が思う“非二元や悟りの状態(=つかめるもの)”を保っていると、自分が進んできたような気がしたり・・・。

もちろん、私たちのほとんどが、普段ものすごい思考活動の中にいますので、これはこれで心身ともにとっても良いことです。

話を戻して、第一番目のsambhavopayaがなぜもっとも高度なエクササイズとなっているのかは、何もしない、何もつかまない、とらえない、ただある、そこにあり続けるというのが自我には非常に難しいからでしょう。

ノンデュアリティと癒しのカフェでも、気づいている意識にただあってみてくださいとお話しますが、多くの人が気づいている意識そのものが何かを探そうとし、そこにとどまろうとしてしまいます。

一番シンプルに説明しようと、“今ここに自分がいるのが分かっていますよね? その分かっている意識にあるだけです”とお話しても腑に落ちない顔の人もとても多いです。

ので、“ただある”がぴんと来ない人、または仕事や日常の生活が忙しすぎて、思考のおしゃべりが止まらないときは、第三番目から始めるのも良いかもしれません。そして、徐々に二番目に移行していく。

つまり一見つかめるものに集中しているようで、実はそれらに気づいている意識を維持する。そして、最後に気づいている意識だけになる。ただあってみる。

さて、こういったエクササイズの紹介をすると、自我はたいてい張り切りだします。自分が悟るのだ!みたいに。

ので、同時に大切なのは、エクササイズをしている自分はすべて掴めるもの(体、思い、感情・感覚)であって、そこに瞑想者は存在せず、気づいている意識そのもののみであると見えてくるまであり続けることかもしれません♪

この手の本はすらすら読み進めて、頭で理解するよりも、一行づつ止まって見つめていくのが一番です。本当に分かっているの?と自分に徹底的に正直になりながら・・・♪

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

今年最後のカフェです♪ (キャンセル待ち募集中)

【日時】2018年11月10日(土)14時~16時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/   
【参加費】4500円
   
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/Y5BBP

オンラインのノンデュアリティと癒しのカフェ開催予定♪
(詳細はブログでお知らせいたします)

自由意志はあるの?

久しぶりにある人に7年前の一瞥体験の話をしました。

突然カフェの帰り道で意識がシフトしたとき見えたものは、ものに名前がついていることや起きていることに思考がついてくることが、いかに後付けなのか、ありのままがいかに完全かということ。

今まで何一つ起きていなくて、すべては夢だったということ。ここで私は頑張らなくて良いんだ~と、大きな安堵感を感じました。

そして、体は自分のものじゃないどころか、完全に無関係に感じられ、一瞬体の操作の仕方が分からなくなってしまったこと。(でも、体は勝手に動いたけど)

夕方から夜寝るまでそんな状態でしたが、朝起きたらすっかりいつもの自我の意識に戻っていました。

そして、必ず陥る罠にすっぽり。つまり、あのときの状態よ!もう一度! あの時の状態をキープできれば良いのだ!という勘違いです。しばらくそれを目指して瞑想をしてみたり、もがいていました。

ですが、非常に有難いことに、現代ではインターネットのおかげでかつてよりもティーチャーのメッセージを聞くのがたやすいですよね。

ロンドンでもルパート・スパイラ、トニー・パーソンズ、ジェフ・フォスターといった知られたティーチャー?メッセンジャー?のサットサンが定期的に開催されていて、気軽に足が運べます。

彼らに質問することで、その勘違いからあっという間に抜け出せたことは、ほんと感謝しています。

話がすごく逸れた気がします(笑)。

話したかったことは、体が自分だと思っている「思考」が自我だなぁということです。

ということで、ある本を読んでいて、これは良い自我の説明だと思った箇所があり、訳してみました。

自我とは、“個の私”という感覚をアイデンティティとしているエネルギーフィールドであり、常に抵抗として経験されているものである。自己の意志があるという思い込み、つまり神(気づいている意識、純粋意識)から独立して思考したり、行動したりすることができるという考えを持ち続けているものである。

The ego is an energy field identified as the sense of “me”, and is experienced as resistance, which perpetuates the belief in personal volition : the idea that a person can actually think and perform actions independent of God. (from “Be Still And Know I AM GOD”)

ちなみに、ここでの抵抗とは、あるがままへの抵抗を意味しています。今の状態が嫌だ、今の自分から変わりたい、思いが過去や未来へ飛んでいく状態です。

体は最も重くて濃いエネルギーフィールドであって、重くて濃いからこそ、掴めるものにしか意識がいかない自我は、それが自分だと思い込んでしまう。

また思考もかなりのエネルギー量を持ち、なので考え過ぎると私たちはたいてい疲弊してしまいます。また、感情も嬉しくても悲しくてもその度合いが高いと耐えられませんよね。

マイケル・ジャクソンのコンサートではマイケルがほんの少しステージに現れた瞬間から失神者が続出していたそうですが、嬉しすぎても体が抱えきれなくて、シャットダウンしてしまいます。

つまり、体、思考、感情がそれぞれにエネルギー値が非常に重く、存在の実感がとっても強いために、どうしても“個の私”がいるように感じるんです。

しかも、思いや感情も非常にパーソナルで、隣の人は自分が何を考えているか知らないし、他者と自分は分離しているようにしか見えません。

ある意味純粋意識が作り出した、“分離した個の私”というすごい遊戯です。

一見話は飛びますが、私はフォーカシングというツールが大好きです。フォーカシングでは体にある感覚(フェルトセンス)を見つめ、受容し、友達になることが初めの一歩です。

私はこれを年中やっていたのですが、そのとき気づかなかったことは、フェルトセンスを見つめているとき、私はその感覚と同化していないということです。

そして、それがどんなに不快で気持ち悪く、ひどいものでも受容し、友達になるというのは、限りなく気づいている意識の性質ですね。

つまり、知らない間に私の意識は少しづつ気づきの意識に寄り添って行っていたのだなぁと。

ちなみに、エックハルト・トーレの本に深く感銘し、思考を眺めることも年中やっていましたので、思考と感情、感覚との同化から距離が徐々に生まれていたのでしょう。

とはいえ、それをやっていれば目覚めるのか?というと、それはまた別の話ですが、かなり助けにはなると思います。

話を最初に戻すと、体が私だという思いがなければ、自分の意志があるという幻想も消えていくでしょう。自分には自由意志があり、自分が人生をコントロールしなければいけないという錯覚にどれだけ私たちはエネルギーを使い、苦悩していることか。

自由意志は存在しなくても、あゆかの情熱、あゆかの思い、あゆかの意志は現れ続けます。でも、それが個の私によって所有されるものではなく、神(気づいている意識)の意識に明け渡されたものであれば、自分が頑張るという多大なストレスから私たちは解放されることでしょう。

朝起きて、いきなり今日のTO DO LISTに向かわずに、静かになって自分の中にある神(気づいている意識)の衝動を感じてみるのもなかなか良い一日の始まりかもしれません♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ開催♪

キャンセル待ち募集中♪

【日時】2018年10月13日(土)18時15分~20時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
【参加費】4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6TYFT

幻を生き抜く♪

ときどき忘れてしまうことは、
私はいつも夢を見ているということだ。

この夢はあまりにリアルで、夢を見ているという実感さえまったくない。

自分がいて、人生があって、大切な人がいて、自分だけの思い、情熱、記憶があって、
これが夜寝ているときと同じ夢だとは、とても思えないから。

でも、真実はささやき続ける。

あなたは夢を見ているのだよと。

私の愛する人たちが幻だというのか?
私が人生をかけて作り上げてきたものもすべて幻なのか?

自我の中で悲しみや怒りがこみ上げてくる。

真実はささやく、

あなたの夢は生命の発露そのもの。
形は実体のない幻であっても、生命である気づきの意識は実体そのものだ。

すべての人生、すべての出来事、自分に関わるすべてのこと、あらゆる形が、
この気づいている意識の中を通り過ぎていく。

一分前、一秒前の自分はもうどこにもいない。
今の自分も常に変化する時の流れの中にしかいない。

留まっているものは何一つなく、
気づいている意識だけが、気づいている意識が作り上げる夢を見ている。

夢は流れ続け、気づいている意識は常にそこにある。

私の愛する人たち、私が作り上げた人生、

執着を手放してごらん、
あなたの夢(人生)は、もっと自由に軽くなるだろう。

生命の流れにゆだねてごらん。
そうすれば、すべてが最初から最後まで讃えられていたことに気づくだろう。

自我は目覚めながら、自分の夢を全力で生きていく。

そして、最後に何も起きていなかったと、心から微笑む♪

そこにすべてを愛した、愛だけを残して・・・。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ開催♪

【日時】2018年10月13日(土)18時15分~20時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
【参加費】4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6TYFT

“私”を動かしているもの

私たちは普段、何の疑問もなく、「私の思い」、「私の感情」、「私の体」という言い方をしますよね。

あたかも、「私」がそれらを所有しているかのように。

でも、純粋に観察をしてみたら、その所有者である「私」はほんとうにいるでしょうか?

真剣に探してみましょう。。。。。。。

どうしても見つからないはずなんです。

つまり、自我(自分)とは、所有者のいないある特有の体、特有の思考、特有の感情の合体物ですね。

一つ一つの花がユニークであるように、ユニークな一つ一つの自我。

でも、所有者がいないなら、何がこの体、思い、感情を動かしているのでしょう?

自我は思考や脳に高い価値を置いているため、脳の機能だと考えがちですが、ほんとうにそうでしょうか?

であれば、人とAI搭載のロボットの違いは基本的に全くないわけですね。

でも、ほんとうに人とロボットは同じ?

おそらく大きな違いは、意識があるかということ、生命のエネルギーが流れているか?ということでしょう。

ロボットは自分が何をしているのかを把握しているでしょうか?もちろんしていないですよね。

私たちが自分が何をやっているのか、何を考えているのかを把握できるのは、それを見ている意識があるからですね。(思考が思考を見ることはできない)

また、新しい生命を誕生させるているものは、生命のエネルギーであって脳が生み出しているわけではありません。(脳は生命のエネルギーによって生み出された)

つまり、自我(私たち)を誕生させ、動かし、そしてその動きや変化を捉えているものは、生命のエネルギーと気づいている意識です。

そして、その二つをよ~く見つめていくと二つは同じもの。

でも、気づいている意識は気づいているだけであまねく存在し、一切形ももたず、徹底的に静かで、まさに「空」。なので、決して捉えることができません。

一方、生命のエネルギーは常に様々な形を生み出し、変化変容し、見えたり、感じたり、聞こえたり、捉えることができる、まさに「色」。

そこに思考がやってきて、あれは鳥だ、あれは建物、あれは~~、これは~~、宇宙は~~~、悟りとは~~とレッテルを貼ったり、区別したり、定義づけたり、そしてだんだん、将来の不安というまだ現われていないもののストーリーを作ったり、または、抽象的な概念を作り上げていきます。

そのうちにあたかも思考がすべてを捉えることができる、真実を知ることが出来るはずだと錯覚し始めます。(だから悟りも理解によって到達できるはず・・・)

しかし実際は、思考は生命のエネルギーの一つの形に過ぎず、一日でも膨大な思考が現われ、消えていきます。また、思考を観察できるということは、それは主体ではなくて客体ですね。

生まれては消えていく観察される側の客体が、常にあって分離のない全体を捉えることはできるでしょうか?

思考という有限であるものが、無限を捉えることはできるでしょうか?

思考が現れて消えていくのが分かっているのは、気づいている意識ですね。変化が分かるとうことは、常にあるものがあるからです。

では、どちらがより真実を知ることができるでしょうか?

現れては消えていくもの?

または、常にあるもの?

よ~く観察してみませんか? 思考を通らないただ純粋でダイレクトな観察を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考が静まったとき、いつもそこにあるもの、ものすごく静かで、すべてを受容し、ただあるだけ、在って気づいているだけの本質が顔をだしてくるでしょう。

だから、古今東西の悟りのマスターたちは、思考のない沈黙の大切さを教えてくれるのでしょう。

ということで、まずは頭の中のおしゃべりを横において、「ただ在って」みませんか?

これ以上になく最高にシンプルに。

「ただ在って」みる♪

You are what you are looking for.

右手を見ているのは誰?

右手を見てください。

いえ、バスの中の風景ではなく(それでも良いですが)、右手です♪

それを見ているのは誰でしょう?

恐らく99.9%の人が自分だというでしょう。

私が私の右手を見ているよ、と。

それが多くの自我の勘違いなんです。

右手を見ているのは個の自分ではなくて、気づいている意識です。

ノンデュアリティ(=悟り)の探求をしている多くの人が、右手を見ているのは自分であるという前提で、その自分がいつか「私がいない」状態になる、無の境地になる、真の自分になると考えています。

そのために思考の観察とか瞑想とかやるのだ!と。

でも、保障しますが、その前提ではいつまで経っても「頑張っている自我」がいるだけでしょう。皮肉ぽくてごめんなさい。

私が毎回毎回しつこくご紹介している、14世紀ドイツのマスター・エックハルトの言葉、「神があなたを見る目は、あなたが神を見る目と同じ。」

神が神を見ていて、この世に神しかいなくて、だからすべては神の遊戯♪

これはスピリチュアルなメッセージであると同時に自然科学です。

見たままを言っている言葉です。

ということで、見ている自分を分解してみましょう。

見る機能の目がある(肉体)
見ていることに気づいている意識がある(気づいている意識)
見たものを「右手だ」と判断している思いがある(思考)

この中のどこに個の自分がいるでしょうか?

頭で考えないで、観察して探ってみてください。

ちなみに、このように思考を介さないで観察することがダイレクトパスなんです。

この観察をしても、多くの人が、それでもどうしても個の自分がいる感じがする。。。と言います。

その「いる感じ」をよく観察し、分解してみてください。

ほんとうにそこに「個の自分」がいるかどうか。

ということで、これは夏休みの宿題です♪(ウソ)

個の自分がいないと本当に腑に落ちたとき、

カミングホームとは、今と違うところ(高次の世界、無の境地、あの世など)に帰るのではなく、私(気づいている意識)がいつもいつもいたことに気づくこと。(思い出すこと)

自分は家から一度も離れていなかったと気づくこと。

皆様、良い週末をお迎えください♪

 

PS: 思考の観察も瞑想もお薦めですが、それは違う状態を目指してやるのではなく、ただ純粋に「見る」、「座る」というシンプルなものが良いですね。