いつまでも頭の理解なんです・・・。

真実を知りたくて探求を長く続けているけど、今だに頭の理解でしかない・・・とおっしゃる方がそれなりにいます。

知識は増えていくのに、実感がまったく伴わない・・・。

一つは、確かに真実を知りたいのだろうけど、思考を手放す準備がまったくできていないという場合があります。思考(頭)を手放さないから、いつまでも頭の理解だけ・・・。ある意味当然の帰結です。

思考を手放すとは、瞑想の時だけ思考を鎮めるという話ではありません。すべての思考をあてにしないということです。ほんと~にすべての思考を。

私はセラピスト養成講座を長く続けていますが(次回で一応終了)、実は癒しのベースも「中立で透明な立ち位置(考えが邪魔しない立ち位置)」というのがとっても大切です。

考えに邪魔されず、しかもどの思考も信じない、という立ち位置です。

例えば、クライアントさんが“いつも相手(彼)がウソをついて自分が傷ついて関係が終わる”というテーマでいらした場合、

相手がウソをつく・・・は、事実ではなくて解釈ですね。その人はどんな相手の言動を“ウソをついた”と解釈したのか知るためには、“彼は実際なんて言ったのですか?”と聞く必要があります。

すると、

“火曜日に仕事に行くと言ったのに、行っていなかった。”

というお返事。

私は年中日程を間違えるので、私なら“日にち間違えたのかな?”と解釈してしまうでしょう。

しかしこの人が“彼がウソをついた”と解釈した理由は、“私はすべてを正しく把握していないとダメ”→“把握していないということは、頭が悪いという意味”→“頭が悪い私は生きていけない”という思考のストーリーが潜在意識にあったからです。

なので、自分が把握している事実と違うことが起きていることが許せなかったのですね。

でも、“頭が悪い私は生きていけない”というストーリーが解体された時、その人はその思考の同化から自由になり、また、彼がウソをついているという投影も落ちるんです。

ここで、いつも“でも相手は本当にウソをついているかもしれないじゃないか?”という質問を頂きます。

もし相手が本当にウソをついていても、反応がぜんぜん違います。ストーリーに支配されていると、“このウソつき野郎~~!!!”となるかもしれません。一方ストーリーがなければ、なんでウソついたの?と話し合いができるかもしれませんね。

究極的にはどちらもストーリーですが、後者のほうがはるかに穏やかなストーリーです。

しかし、私たちは普段これをストーリーとしてはみなさず、真実、事実として捉えています。深い眠りの状態です。

自分の中にたくさんのストーリーを“真実”として握りしめ、ストーリーに同化しながら知識を深めても、ストーリーが私たちを夢にとどまらせてしまいます。

しかし、自我は自分を見たがらないもので、たいてい意識が外にいつも向いています。

ので、自分の握りしめているストーリーにはほぼほぼ無関心です。それよりも瞑想や何か(外からもらうもの)が真実へ導いてくれないかと「やり方」を知りたい!みたいな。

ちなみに自分の気づいていない潜在意識のストーリーを知るために、私は「気づきの問いかけ」を使っています。

基本、皆さん、“難しい、使い方がさっぱり分からない”とおっしゃります。

でも難しい理由は、「中立で透明な立ち位置」を忘れて、ストーリーをそのまま聞いてしまうからです。

あらゆるストーリーを鵜吞みにしない、シンプルだけどものすごく難しい。

自我の長年の自然な行動(ストーリーに同化し、ストーリー上で考える)に相反する上に、ストーリーという楽しく、苦しく、エンターテイメント性たっぷりの世界から離れる、ある種のつまらなさ。

ここまで書いて、真実を知るには、自分の無意識のストーリーを知ることが必須だね、と書いているわけではありません。

すべての人にすべての人の道があり、様々な目覚め方があるでしょう。

しかし、私たちはどこかで自分のストーリー(思考)を手放す準備がないといけないかもしれません。

そして、トニー・パーソンズがリチャード・シルベスターの耳ともとに“I wish you die soon.あなたが早く死にますように”とささやいたように、最終的にストーリーだけではなく、自分そのものを明け渡し、真実の中へある意味死にいく準備が必要なのかもしれません。

それは肉体の死という意味ではまったくありません。肉体の死は、始まりがあって、終わりがある自我のストーリーですね。死んだり、目覚めたりする誰かをあきらめるということ。

個の消滅♪

小波が小波であることをあきらめるということ。

そして、小波は大海となる♪

 

 

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持ち主のいない苦しみ♪

おそらく自我にとって一番ショッキングなことは、思い、感情、感覚、体はあるけど、それを所有しているはずの自分がいないと分かることかもしれません。

ノンデュアリティと癒しのカフェでは、皆さんに“自分”を探してもらいますが、今まで見つけた人はちなみに一人もいません。

思いの中にも
感情の中にも
感覚の中にも
体の中にも

どこにも所有者は見つからないんです。

また、私の思い、私の体とあたかもそこに主体や所有者がいる感覚がありますが、もし本当に主体(=所有者)がいるなら、思い、感情、感覚、体がなくなっても、そこに所有者が残らないといけないですよね。

でも、やっぱりどんなに探しても見つからない・・・・。

つまり、主体なしに思いがあって、感情があって、体があるんです。

例えば、カフェで一人座って窓の外を見ながらコーヒーを飲んでいるとして、

そこに経験者としての誰かはいなくて、

外の景色を見るという経験

カフェ内外の音を聞くという経験

コーヒーを味わうという経験

考えるという経験

これらの経験が経験主になしに起きている。

つまり、私が世界を見ているという二元の世界観はそこで崩れ去り、
見ると見られるは分けられず、一連の様々な現象が起きていて、そしてそれと気づきの意識も分けられない。

・・・・・・・・・・・・・。

さぁ、今あなたが抱えきれないと思っている苦しみがあるとしたら、“私の”という思いをちょっと緩めてみませんか?

それが誰のものでもないとしたら?

苦しみについているストーリーもあなたのものでなければ?

そもそもそれを持っている所有者がどこにもいなければ?

胸の奥に感じる固いものも

鼻の先につんと感じる悲しみも

お腹に感じる重く深い絶望も

“私の”という思い込みから解放してしまったら?

あぁ、そうそう、所有から解放しようとしている動きもあなたではなくて、

そして、ただ、気づきの意識にあってみたら?

ゆっくり深い呼吸をして、そこにくつろいでみたら?

・・・・くつろぎタイム♪・・・・

あなたは、思いでも感情でも感覚でも体でもなく、

あなたは、あなたの人生を生きるというストーリーでもなく、

それにずっと気づいている意識

そこを安住の地にしてみませんか?

 

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目覚めるために大切なこと♪

おそらく、真実に目覚めるために最初に大切なことは、ある意味あたり前過ぎるけど、意外におざなりにされていること。それは、自分が眠っていると真に自覚することなのかもしれません。

そうでない限り、眠りの中での目覚めストーリーを追い求めてしまうと思うのです。眠りを自覚するとは言い換えれば、自分がどれだけ思考にはまっているのかを真に知ってみることです。

インテグレイテッド心理学では、いつも「事実と解釈」を分けるエクササイズをします。多くの人にとって分かりにくいことは、例えば「メールの返事がこない」「子供が歯を磨かない」「私には子供がいない」が事実ではなく、解釈であるということです。

ここはほとんどの人がクエスチョンマークを飛ばしまくります。しかし、ここでいう事実とは思考をすべて横に置いたときの「ありのまま」を指しています。

このとき、「~~がない」は、どこにも存在せず、唯一自分の頭の中にあるだけです。

つまり、自分の頭の中にしかないことと実際にあるものの区別を私たちはほとんどしていないんです。

一瞥体験をしたとき、椅子という概念を通さない椅子の姿は、見事にありのままで美しく、完ぺきでした。

ですが、私たちは見るもの、聞くもの、感じるものすべてを定義づけ、解釈し、世界を思考によって分かりやすいものにしていきます。そして、それが事実となって動き始めますね。

また、自分に対しても「私は~~だから、能力が足りない」「~~だから、私はバカだ」というように定義づけていきます。そして、それは紛れもない真実であると信じてしまいますね。

でも、自分に関するありのままの事実は「私がいる」、終わり、です。それ以外の私についての思いはぜんぶ頭の中にしか存在しないですよね。

でも、これも多くの人にとっては、いやいや私は男だ、女だ、日本人だなどは、明らかに事実でしょう、とゆずれないかもしれません。

またセッションでは、それがいかに事実、真実かを数々の証拠(通信簿がオール1だったとか、彼に振られたことしかない、誰かにバカだと言われたなどなど)を差し出してくる人もとても多いです。

しかし、通信簿オール1は本当にバカなのか?、深く考えていくと、バカの定義がいかにあやふやか分かるはずです。

ので、頭が悪い私、女として魅力がない私、バカな私などなどは、思いとして頭の中に存在しているだけなんです。実際、その思考が一切なくても自分はそのまま存在していますよね。

これはある意味、ものすごく自明で、ものすごくシンプルな話ですが、この話自体が多くの人にとってわかりにくく、実感が伴わないものでしょう。それぐらい私たちは頭の中にしなない思考にはまり、頭のストーリーの中を生きていきます。

あまりにそのストーリーにはまりすぎているため、椅子を椅子と見ない圧倒的なリアルさにはほぼ気がつけないものです。

ましてや、ストーリーに感覚や感情が伴い、体にも組み込まれていけば、そちらのほうが圧倒的にリアルに感じられ、私たちは全身全霊でストーリーにはまってしまいます。

でもそのストーリーが悪夢になってきたとき、ある意味私たちの意識は目覚めに向かっていくのかもしれません。

いずれにしても、「頭の中にしかないもの」と「実際に起きていること」を徹底的に区別してみることが目覚めの第一歩となるのでしょう。

そして、私たちの本質とは思考によって決して定義づけることのできない、生まれては去っていく思考に気づいている意識であり、夢の中の私ではない、実体の私。

深い静寂♪

PS: 日常生活の中で解釈するなとかそういった薦めではまったくありません。例えば、誰かが虐待を受けているは、解釈だ~などとせず、早急に対応することが大切ですよね。(空即是色)

 

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一瞥体験よりも求めたいもの♪

一瞥体験に関する下記のようなご質問を頂きました。↓

エックハルト・トール氏もプロフィールに一瞥体験が記載されています。全ての方ではないですがプロフィールに同じような内容が紹介されます。なぜでしょうか?そして経験(一瞥体験)が去った後は?読者や探求者は、必ずこれに引き寄せられますが・・・。

私の場合はすべての始まりであり、発信する中で自然な感じがするからです。(記載しないと何かを隠しているみたいで不自然な感じ)他の方は分かりませんが、それを目指すものとして書いているわけでもないと思います。

一瞥体験に関してある意味危険?なところは、私も見事に陥りましたが、“あの体験をもう一度”となってしまうことです。または “あの状態が続くことが悟りだ”と勘違いしてしまうことです。

せっかく真実を掴んだのに失ってしまった・・・と私は本気で思い込んでしまいました。また、その後人生の意味を見失って、虚無に陥る人も多いですね。

しかし、有難いことにロンドンには非二元のお話会が頻繁にあり、ティーチャー達によって私の勘違いは比較的早く是正されました。

体験というくくりで言えば、一瞥体験もバンジージャンプ体験もある意味で同じです。体験はすべて過ぎ去っていき、一瞬一瞬変わり続け、そして一瞬前にあったものは消えていきます。何一つとどまることはなく、つまり、実体のないものです。

一瞥体験もそうです。始まりと終わりがあります。私の大きな勘違は、必ず変化し、終わりがある経験や状態というものに永遠にとどまっていられると思ってしまったことです。

しかも、分離した個である私が(笑)。ですが、ぜんぶ丸ごと大きな勘違いでした。

というのも、存在の本質は不変であって、失うこともができず、つねにここにあるもので、そして分離した個が決して留まれるものではなく、捉えることがまったくできないからです。

ですので、大切なことは去って消えていく体験ではなくて、

“決して去らないものは何か?”という問い、

そして、

“そもそも体験者はいるのか?”という問いです。

自我は特別な体験、とくに悟り体験のような特別体験に憧れる傾向があります。ですが、もし求めているものが、去ってしまう体験ではなく、不変の真実なのであれば、一瞥体験という遠回りをしなくても良いかなと思います。

ちなみに私の先生であるルパート・スパイラさんは、一瞥体験をしておらず、一瞥体験は目覚める条件というわけでもないんです。

真実はいまここに否定しようがなくすべてに浸透しています。たどり着くものでもなければ、ここにないものを見つけ出したり、得るものでもありません。

なので、探求はどこかに向かうのではなく、いまここへの探求、そして意義ある疑問は、“今ここにある真実がなぜ見えないのか?”でしょう。

このブログでもそこを強調しているつもりではあるんです。ただ、書き言葉に限界がありすぎますが・・・。

とりあえず、体験というつかめるものではなく、あらゆる体験に気づいている、決して捉えることができないもの。いまここでそれを探してみませんか?

 

☆☆☆オンラインお話会について☆☆☆

この度は予想以上にお申し込みを頂き、また動画販売のリクエストもありがとうございます。

動画販売に関しまして、当日参加のようにやりとりができないこともあり、個人的には価格を少し低く設定すべきだ(したい)と考えています。しかし、当日参加できない方も、すでにお振込みを済ませた方も多く、現段階で2種類の設定で申し込みし直して頂くのもかなり煩雑になると判断いたしました。そこで、動画販売の価格に近付けるため、4回のお話会を同じ価格で5回やることに致しました。(*^_^*)

つまり、動画販売もいたしますので、またお知らせさせてください♪

自分への信頼が生まれる場所♪

例えば、
自分の方向性が良いかどうか分からないとき、
やってみないと分からないとき、
他者の評価がいろいろなとき、

世間や人の言葉に左右されず、自分らしく行こうと思えば、
自分に自信を持つ必要が出てきますね。

または結果がすぐに出てこないことを続けるとき、
自分を信頼していないと不安に負けてしまうかもしれません。

基本、人生とはそもそも明白なものや確実なものよりも、
よく分からないもの、不確定な要素の方が圧倒的に多いものです。

でも、自分を信じたり、自分を信頼するのが難しく感じるときってありませんか?

だからここはじっくり座って、自分への自信や信頼がどこから生まれてくるのか、
よ~くよ~く見つめてみたいのです。

不確定なものに自信を持つために・・・・、

一つ見えてくるものは、決して思考から自信は生まれないこと。

思考は不確定なものを確定しようとする衝動がありますね。
でも、どんなに確定しようとも、きっとこうなるという推測や
こうなるはずという期待、またはきっと大丈夫と思い込むなどなど、
どこかウソっぽい自信。

砂の上に立ったお城みたいな自信です。

そこで思考ではなくてハートの中に留まってみる。

手を胸に当てて、思考を静めて、

気がつきましたか?

ハートには思いが存在しないから、時間も空間もないんです。

「いまここ」だけ。

そして、そこにじっといてみる。

もし、ハートに固い感じ、重い感じがあれば、それにただ気づいて、

静けさにただあってみる。

思考は、この先どうなるのだろう?
私のやっていることは正しいのか?
この道を進んで良いのかな?
もうなんだか分からない・・・、

と迷い、不安、混乱の思いを発しているかもしれません。

でも、ハートの静けさにただってみる。

そのうち、ハートの静けさと気づきの意識と生命が一つであると感じるまで。

あらゆるものを動かし、創造し、生み出していく生命

I AMとしての私

そこではあなたのすべてが保障され、生も死もなく、無限の場、

自分を信頼する、自分に自信を持つとは、
生命にゆだねる心のこと、
I AMに降参する真摯さ、

生命の上に立って大丈夫だと知っていること。

不確定な生命の息吹、何が生まれるのか未知が潜む場所、

間違いも失敗もあって大丈夫。

もっと大きな自分だから、

それは本質が支えてくれる自信と信頼♪

 

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心のしくみや私たちの本質についてのお話し会です。

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悟りへの三段階エクササイズ~ヨガの伝統から~

IMG_0521久しぶりにカシミール・シャイビズムの本(写真)を手に取ってみました。というのも、フェイスブックでルパート・スパイラさんの奥さん(Ellen Emmet)が、非二元とヨガにつての投稿をシェアしていたからです。

投稿によると、ヨガはもともと近代になりまでポーズというものはなく、本来の目的は体を通して本質を理解していく手段だったそうです。私はロンドンで何度かこのエレンさんの非二元ヨガを体験し、ヨガというのに、まったくポーズがないことに最初は少し戸惑いました。

ですが、ある意味とても新鮮で、ただただ体と体の感覚、体と外側の関係を見つめ、境界線が消えていくのが楽しくてたまりませんでした。と、書くと楽しそうに聞こえるかもしれませんが、非常に地味なワークで、自我が“つまらない”、“なんでこんなことやるの?”と騒ぎ出すほど地味です。

実際、エレンさんをご招待してあるグループでやってもらったときは、ほとんどの人が寝てしまいました(笑)。

さて、話を本に戻すと、いかにヨガが非二元の教えそのものだったか、いかに古代からの教えが今に通じて、というか真実のメッセージは変わっていないかがひしひしと分かります。

本の中に制限された意識の自我が、無限の純粋意識そのものの自己の本質を知るには3段階の方法があると書いてありました。

この3段階は、行う人のレベルに合わせるべきだが、とりあえず一番高いレベルから皆初めて、それができない場合は、2段階目、3段階目とやってみると良いと書いてあります。

ちなみに一番高いレベルをsambhavopaya、二番目をsakatopaya、三番目をanavopayaと呼ぶそうです。

で、一つ一つの段階の説明がこの後に続いています。

詳細は書けませんが、一番高いレベルとはなんと「在るにある」という、いつもこのブログで書いていたことでした。(思考は一切横に置いて、自分がいる、ここ、あそこなど、どの思考もすべて横に置く)

もちろん、それはニサルガダッタが彼の師から言われたこと、またルパート・スパイラさんがいつも言っていること(abiding with awareness)で、そのほかの非二元のメッセンジャーたちが言っていることと同じです。

二番目のsakatopayaは、口に出したり、唱えたりできない何かに集中すること。体の変化や思考、感覚など変化する世界の中で気づいている意識を維持していく。

三番目のanavopayaは、体の一部に集中したり、呼吸やマントラ使って心を集中させる方法。

自我的には、おそらく3つ目が一番何かをしている感が強いのでやりやすいでしょう。というのも、自我はどうしても何かつかめるものに集中してしまう傾向が非常に強いからです。

特に瞑想などをしていると、“穏やかな感じ”、“平和な感じ”、“思考のない空な感じ”など、自分が思う“非二元や悟りの状態(=つかめるもの)”を保っていると、自分が進んできたような気がしたり・・・。

もちろん、私たちのほとんどが、普段ものすごい思考活動の中にいますので、これはこれで心身ともにとっても良いことです。

話を戻して、第一番目のsambhavopayaがなぜもっとも高度なエクササイズとなっているのかは、何もしない、何もつかまない、とらえない、ただある、そこにあり続けるというのが自我には非常に難しいからでしょう。

ノンデュアリティと癒しのカフェでも、気づいている意識にただあってみてくださいとお話しますが、多くの人が気づいている意識そのものが何かを探そうとし、そこにとどまろうとしてしまいます。

一番シンプルに説明しようと、“今ここに自分がいるのが分かっていますよね? その分かっている意識にあるだけです”とお話しても腑に落ちない顔の人もとても多いです。

ので、“ただある”がぴんと来ない人、または仕事や日常の生活が忙しすぎて、思考のおしゃべりが止まらないときは、第三番目から始めるのも良いかもしれません。そして、徐々に二番目に移行していく。

つまり一見つかめるものに集中しているようで、実はそれらに気づいている意識を維持する。そして、最後に気づいている意識だけになる。ただあってみる。

さて、こういったエクササイズの紹介をすると、自我はたいてい張り切りだします。自分が悟るのだ!みたいに。

ので、同時に大切なのは、エクササイズをしている自分はすべて掴めるもの(体、思い、感情・感覚)であって、そこに瞑想者は存在せず、気づいている意識そのもののみであると見えてくるまであり続けることかもしれません♪

この手の本はすらすら読み進めて、頭で理解するよりも、一行づつ止まって見つめていくのが一番です。本当に分かっているの?と自分に徹底的に正直になりながら・・・♪

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

今年最後のカフェです♪ (キャンセル待ち募集中)

【日時】2018年11月10日(土)14時~16時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/   
【参加費】4500円
   
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/Y5BBP

オンラインのノンデュアリティと癒しのカフェ開催予定♪
(詳細はブログでお知らせいたします)

自由意志はあるの?

久しぶりにある人に7年前の一瞥体験の話をしました。

突然カフェの帰り道で意識がシフトしたとき見えたものは、ものに名前がついていることや起きていることに思考がついてくることが、いかに後付けなのか、ありのままがいかに完全かということ。

今まで何一つ起きていなくて、すべては夢だったということ。ここで私は頑張らなくて良いんだ~と、大きな安堵感を感じました。

そして、体は自分のものじゃないどころか、完全に無関係に感じられ、一瞬体の操作の仕方が分からなくなってしまったこと。(でも、体は勝手に動いたけど)

夕方から夜寝るまでそんな状態でしたが、朝起きたらすっかりいつもの自我の意識に戻っていました。

そして、必ず陥る罠にすっぽり。つまり、あのときの状態よ!もう一度! あの時の状態をキープできれば良いのだ!という勘違いです。しばらくそれを目指して瞑想をしてみたり、もがいていました。

ですが、非常に有難いことに、現代ではインターネットのおかげでかつてよりもティーチャーのメッセージを聞くのがたやすいですよね。

ロンドンでもルパート・スパイラ、トニー・パーソンズ、ジェフ・フォスターといった知られたティーチャー?メッセンジャー?のサットサンが定期的に開催されていて、気軽に足が運べます。

彼らに質問することで、その勘違いからあっという間に抜け出せたことは、ほんと感謝しています。

話がすごく逸れた気がします(笑)。

話したかったことは、体が自分だと思っている「思考」が自我だなぁということです。

ということで、ある本を読んでいて、これは良い自我の説明だと思った箇所があり、訳してみました。

自我とは、“個の私”という感覚をアイデンティティとしているエネルギーフィールドであり、常に抵抗として経験されているものである。自己の意志があるという思い込み、つまり神(気づいている意識、純粋意識)から独立して思考したり、行動したりすることができるという考えを持ち続けているものである。

The ego is an energy field identified as the sense of “me”, and is experienced as resistance, which perpetuates the belief in personal volition : the idea that a person can actually think and perform actions independent of God. (from “Be Still And Know I AM GOD”)

ちなみに、ここでの抵抗とは、あるがままへの抵抗を意味しています。今の状態が嫌だ、今の自分から変わりたい、思いが過去や未来へ飛んでいく状態です。

体は最も重くて濃いエネルギーフィールドであって、重くて濃いからこそ、掴めるものにしか意識がいかない自我は、それが自分だと思い込んでしまう。

また思考もかなりのエネルギー量を持ち、なので考え過ぎると私たちはたいてい疲弊してしまいます。また、感情も嬉しくても悲しくてもその度合いが高いと耐えられませんよね。

マイケル・ジャクソンのコンサートではマイケルがほんの少しステージに現れた瞬間から失神者が続出していたそうですが、嬉しすぎても体が抱えきれなくて、シャットダウンしてしまいます。

つまり、体、思考、感情がそれぞれにエネルギー値が非常に重く、存在の実感がとっても強いために、どうしても“個の私”がいるように感じるんです。

しかも、思いや感情も非常にパーソナルで、隣の人は自分が何を考えているか知らないし、他者と自分は分離しているようにしか見えません。

ある意味純粋意識が作り出した、“分離した個の私”というすごい遊戯です。

一見話は飛びますが、私はフォーカシングというツールが大好きです。フォーカシングでは体にある感覚(フェルトセンス)を見つめ、受容し、友達になることが初めの一歩です。

私はこれを年中やっていたのですが、そのとき気づかなかったことは、フェルトセンスを見つめているとき、私はその感覚と同化していないということです。

そして、それがどんなに不快で気持ち悪く、ひどいものでも受容し、友達になるというのは、限りなく気づいている意識の性質ですね。

つまり、知らない間に私の意識は少しづつ気づきの意識に寄り添って行っていたのだなぁと。

ちなみに、エックハルト・トーレの本に深く感銘し、思考を眺めることも年中やっていましたので、思考と感情、感覚との同化から距離が徐々に生まれていたのでしょう。

とはいえ、それをやっていれば目覚めるのか?というと、それはまた別の話ですが、かなり助けにはなると思います。

話を最初に戻すと、体が私だという思いがなければ、自分の意志があるという幻想も消えていくでしょう。自分には自由意志があり、自分が人生をコントロールしなければいけないという錯覚にどれだけ私たちはエネルギーを使い、苦悩していることか。

自由意志は存在しなくても、あゆかの情熱、あゆかの思い、あゆかの意志は現れ続けます。でも、それが個の私によって所有されるものではなく、神(気づいている意識)の意識に明け渡されたものであれば、自分が頑張るという多大なストレスから私たちは解放されることでしょう。

朝起きて、いきなり今日のTO DO LISTに向かわずに、静かになって自分の中にある神(気づいている意識)の衝動を感じてみるのもなかなか良い一日の始まりかもしれません♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

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キャンセル待ち募集中♪

【日時】2018年10月13日(土)18時15分~20時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
【参加費】4500円
【申し込みフォーム】
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