真実への問いかけ(self inquiry)

デイビット・ゴッドマンといえば、ラマナ・マハルシの教えに最も精通した方です。
マハルシに対して、多くあった質問の一つが、自己への問いかけ(self inquiry)をやっているけど、うまくいかない。何か間違ってやっているのだろうか?というものだそうです。

ちなみに自己への問いかけ(self inquiry)として有名なのは、Who am I?(私は誰?)というものですね。これは、ダイレクトパスの始まりとも言われいて、自分自身を思考を通さず(私は誰?と考えるのではない)、実際に自分の存在、経験そのものを見て行く、いわば徹底的な観察です。

または、neti neti(not this, not this)という問いかけなど。私はこれのほうが最初はおすすめです。私は体ではない、私は思いではない、私は感情でではない、私は感覚ではない、じゃぁ、私は何?と、これもあれも私ではないと見て行った上で、残ったものをまた見て行くというものです。

これを以前にセミナーでやってとき、かなりの人が単に唱えているだけで、たくさん唱えればだんだん見えて行くと勘違いしてしまったようです。が、唱えたり、考えたりするのではまったくなく、実際に“見る”んです。本当にそうなのかどうか、徹底的に。

でも、この“見る”をやらない人がほんと~~~~に多い。

ということで、話を戻して、そういった質問に対する彼のお返事をちょっとまとめると、

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最初始めたときは、あたかも結果がでているように感じて、とても楽しいけど、だんだん変化がなくなり、つまらない状態になっていくというのは、とても普通のプロセスです。

また、普段は気持ちが外の世界に囚われている(仕事や家族のことなど)けど、自己への問いかけや瞑想を始めると、普段見ていなかった自己の内面が、マンホールの蓋を取ってしまったかのように見えてくる。

すると、自分が気づいていなかった様々なゴミ(ネガティブな思い込みや感情)が浮上してきて、始める前より悪くなったように感じるのです。でも、それは間違ってやっているということではなく、スペイン語を学ぶように毎日やればだんだん上手になるとか、到達するというものではないということです。

5年間自己への問いかけや瞑想をし続けて、ある日、それらを始めた日よりもひどい気分で朝目が覚めるときもあるぐらいです。

でも、心配しないでください。決して何か間違っているということではありません。多くの人はそういったプロセスを通るものだということです。

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(内容をまとめました。直訳ではありません)

これ、ほんとうに共感します。エクササイズや瞑想や修行を重ねれば、いつか到達すると思ってしまう人はとても多いなと思います。

また癒しもまったく同じで、たくさんワークしたんだから、もう癒されたはずと思う人、またはそう思いたい人もそれなりにいます。でも、真実への探求も癒しも、学校の勉強のように進むものでもなく、右肩上がりに上達したり、癒されていくものでもないんですね。

というより、そもそも結果を得るとか、結果を出すという類のことでもありません。例えば、太陽が東から昇って、西に沈むということが真理だとしたら、一番良いのは、実際に見てみることです。

そして、あぁ、ほんとだ!と思うだけのシンプルな話です。ここに積み重ねの上達とか、結果とか、そういった概念は入って来ないはずです。

ただ、面倒なのは、太陽の観察と違って、自分(=自我)の存在自体が本質を見ることを多くの場合防いでしまっていることです。自分がいるから見えないんだけど、その自分が必死に見ようとしている・・・というある種の皮肉です。しかも、その自分の中に抑圧した多くのネガティブな感情や思いがあれば、なおさら見えにくいです。

なぜなら、ネガティブな感情や思いは、体の緊張を生み出し、またエネルギーとしても固く重たいため、じっと観察しようとすると、その感覚のほうが拾えてしまうからです。(全面に出てきてしまう)

ので、ここの質問にあったように、深い瞑想に成功してくるほど、それらの緊張した感覚(内面のゴミ)が感じやすくなることがとても多いんです。

私はもともとはいわゆる通常の心理学を学び、カウンセラーの資格を取得しました。しかし、なかなかセッションで結果がだせなかったことから、長い話を短くすると、最終的に奇跡のコースにたどり着いたのです。

そこにあった自我の心のしくみは非常に役に立ち、セッションの結果もぐんとアップしました。そして何よりも、それは症状や悩みを消すための癒しではなく、ストーリーを解体していく(=自我を解体していく)癒しだったのです。実は最初はそのことに気づいていませんでしたが・・・・。

振り返ると、私の癒しの旅は、自我解体の旅でもあったのだなぁと後から分かりました。

とりとめもなくなりましたが、たくさんやれば良い、うまくやれば良い、ではなく、自己への問いかけ(self inquiry)をやるなら、どれだけシンプルになれるか?(考えに行かない)、どれだけほんとうにありのままを見たいか?ということだろうと思うのです。

 

 空と色のワンデーセミナー in 東京 

本質である私(空)と個である私(色・しき)について改めてガッツリ知ってみよう♪

詳細とお申込みは、下記のセミナー詳細をクリックしてご覧ください。

セミナー詳細はこちら

【日 程】
色(しき)のセミナー:2020年4月25日(土)10時半~16時半
(満席となりました。キャンセル待ち募集中)
空(くう)のセミナー:2020年5月16日(土)10時半~16時半
(満席となりました。キャンセル待ち募集中)

【場 所】
早稲田奉仕園(地下鉄東西線早稲田駅)
https://www.hoshien.or.jp/map/

【参加費】
一つのみ参加の場合: 9,000円
両日とも参加の場合:16,000円

放蕩息子を無条件に抱き寄せる~目覚めの物語~

前からちょっと書いてみたかった、「放蕩息子の帰還」の私風解釈♪ 文調が断定的ですが、お許しください。大学生の頃にこの絵と出会って、いわゆる説教的なオチになると思っていたので、オチがえっ、それ?とすごく新鮮に感じたのを覚えています。

ということで、まずは放蕩息子の帰還のお話をウィキペディアから抜粋。(挿絵はレンブラント)

ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。

そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32)

この聖書の話をどう解釈するかは、たぶん読んだ人それぞれでまったく構わないでしょう。ということで、ノンデュアリティの視点から見ても、とっても的を得ているなぁと思うのです。

ここで「父」を「本質、純粋意識、I AM」とし、放蕩息子を自分の本質を忘れて分離のストーリーにすっかりはまっていた自我として見たとき、父が息子を許す理由は、死んでいたのに生き返ったから、つまり、本質をすっかり忘れていたのに思い出したからと読めます。

分離の夢を現実と信じ込み、放蕩にくれる。ここでいう放蕩は、全体というつながりを忘れ、自分の快楽や自分さえ得すれば良いといった、最も分離感が強い自我の活動です。

例えば、社会を見回しても、自国さえ良ければ、我が社さえ良ければ、自分の立場さえ守られたらなどなど、自我的なふるまいや活動はたくさんありますよね。

でもどんなに自分にとって良いと思っていることをしていても、分離に基づいている限り、心の中では愛やつながりを失っていき、心が闇に落ちて行く。つまり、分離を生きすぎて心の飢えが始まる。(放蕩しすぎて飢える)

苦しくてたまらなくなったとき、道端で飢え死にするか、ほんとうは帰る家があったと思いだせるか、ここが大きな分かれ目になります。

なぜなら自我はあまりに自分のストーリーにはまりすぎて、帰る家の存在そのものを覚えていないからです。

でも、幸いなことにこの息子は、帰る家があること、そしてそこには無限の富(創造の源)があることを思い出せました。でも、まだ自分がしたこと、自分の旅は現実だと思い込んでいるため、自分は罪ある人間だと思い込んでいます。

奇跡のコースには、ほんとうは許す必要もないと何度も書かれています。なぜなら、本質を離れた旅は、すべて分離の夢、幻想であって何一つ起きていなかったのだから。

だから、父は息子が口を開く前に走り寄って抱き寄せ、息子が本当の家を思い出してくれたことを祝福したいと願ったのです。

また、「お前はいつも私といる、わたしのものは全部お前のものだ。」も、本質とともにいるものは、いつも本質そのものを享受しているよということですね。

私たちは本質の目覚めるよりも、人生をより良くする、または自分を高めるという方向に惹かれてしまうものです。もちろん、それは悪いことではないですし、そこにある種の愛おしさも感じます。

しかし、もし人生が思うように行かなくて、文字通り夢破れたとき、実は本質回帰を思い出すチャンスなのかもしれません。

このブログを読んでくださっている皆さんは、もうすでに帰る家があること思い出しているのでしょう。でも、ここで気を付けなくてはいけないのは、「本質に帰る私」という夢に陥らないことです。

この夢は普通の夢よりやっかいで目覚めにくく、「私は目覚めた」というもっと深い眠りにも落ちやすいです。

ので、この物語に書いていないことを付け足すと、父と息子は二つではなく、全体である気づきの意識であって、気づきの意識のみが実体である。気づきの意識の眠っていた部分が自分に目覚め、何一つ起きていなかった、壮大な夢幻(リーラ)だと分かる。

だから、自我は存在していなくて、分離した個の私が全体に目覚めるのではないんです。自我の存在自体が夢だと分かるんですね。

なので、あなたの人生を経験しているのもあたなではない。あなたは存在していないけど、実体として、全体としてのあなたは不滅で、いつもここにある♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

今年からインテグレイテッド心理学は1年間のオンライン講座となります。

また、ノンデュアリティと癒しのカフェオンライン講座も予定しております。

詳細はまだ未定ですが、講座のご案内希望される方はこちらへ。↓

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神が70億個の夢を見ている♪

気づきの意識が、あゆかを通してあゆかの世界を経験している。

つまり、あゆかが一人で部屋で映画を楽しんでいるとき、

映画を見ているのは、気づきの意識

面白いと思っているのは、気づきの意識

あゆかはいなくて(私はいない)、

気づきの意識だけがある(私はある=I AM)

これは思想でも、理論でも、人をけむに巻く話でもなく、

思考をわきにおいて、深く深くあるがままに観察すれば、

誰もが最終的に到達する事実。

神はあなたに経験を託したのではなく、あなたは神そのもので、

この世には神しかいない。

それが存在の秘密であって、そして目覚めのはじまり。

あゆかという現象はあるけど、そこに経験者はいない。

喜んでいる誰かも苦しんでいる誰かもいない。

でも、ここで気をつけよう。 “苦しんでいる誰かはいない”と

頭で苦しみをねじ伏せないこと。

なぜなら、苦しみの底には目覚めへの欲求があるから。

苦しみはとは、幻想の深い闇。ある意味神が深い眠りについた場所。

そして眠りから覚めたいという神の衝動が最も現れる場所。

だから目覚めとは、あゆかという夢から目覚めること。

そのときあゆかという経験者はいなくて、最初から神(=気づきの意識=空)しか存在していなかったと知る。

神のみが存在する。

でも、空即是色。

神しかいないと知っても、あゆかの人生は続き、

神(空)とあゆか(色)は、決して分けられない。(二つに非ず)

だからどんなに目覚めても、神はあゆかという夢を見続ける、

しかし今度は夢を見ているのはあゆかじゃなくて、

神としての私(I AM)だと知りながら。

ということで、やっぱり最後は何度も書いた引用で、

The eye through which I see God is the same eye through which God sees me; my eye and God’s eye are one eye, one seeing, one knowing, one love.”

私が神を見る目と神が私を見る目は同じ。私の目と神の目は一つの目、一つの見る経験、

一つの知る経験、そして一つの愛

 

※Seeingとknowingは、行為を表しているので経験と意訳しました。

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

本質の自分を年明けに一緒に本質を感じてみませんか?

日程:2020年1月5日(日)13時半~16時
場所:あうるすぽっと(有楽町線東池袋)
https://www.owlspot.jp/access/
参加費:5000円
申し込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/9EKAF

広い部屋に変更しました。募集を再開します♪

「なにもない」のあなたと「満ちた」あなた♪

悟り(非二元)で言われる、“苦しんでいる誰か”もいないし、“癒されるべき人”もない。

これは見事に真実である。

だから癒しも必要ないし、思いを眺めたり、瞑想したりする必要もない。むしろ、そんなことをすれば、あたかも誰かがいるかのようになってしまう。

しかも、 “誰か”が存在しないだけではなく、あらゆる事象は夢であってほんとうは何も起きていない。

夢の中で起きたことを引きずる人もいなければ、夢の中で熊に襲われてトラウマになる人もいないはず。

もちろん、心の傷だけではなく、癌で苦しんでいる人もいなければ、愛する人を失ったものの悲しみもない。

だから究極の観点からすれば、夢の中の存在しない人を癒すよりも、そんな人はいないと分かったほうが良いだろう。夢だったと分かって、ほっとして癒されるはずだから。

苦しんでいる誰かはいないと、究極は黙ってそう教えてくれる。

そしてその究極の沈黙であり、言葉を超えた存在そのものが自分であることは、自我のストーリーをすべて打ち砕き、空に帰していく。

すべての思いは信じるに値せず、現実だと思い込んでいたものがこれほど虚ろなものだったことに自我は驚くだろう。

究極のあなた、空。

・・・・・・・・・・・・・・

それでも、私は苦しみを癒したいし、自分の中の分離、対立、抵抗を癒したい。

目の前で困っている人がいたら助けたいし、虐待される子供がいなくなって欲しい。

そして、世界が分離から愛へとシフトしていくことを切望し、夢見たい。

なぜ?

究極に目覚めてしまえば、それで良いじゃない?

なぜなら、それも本質の現れであるから。事象の一つ一つは夢として消えていくけど、事象を生み出す存在としての生命は未来永劫に続く。

自然に現れるものを無意味と一笑してしまう必要もなく、否定する必要もないだろう。

現象で満ちている「色」も本質の私であって、この二つは決して分けることはできない。(二つに非ず)

あなたはどちらか一方に片寄ることなく、空であり、色である。「ない」けど「ある」。

頭では解決できない矛盾を本質はずっと抱え続けてきたし、これからも抱え続ける。

空は永遠に満ちた夢を見続ける♪

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

満席となりました。ありがとうございます。

自分の本質について、癒し、自我、人生についてのお話会です。

リアルの交流はまたオンラインと違う楽しみがあります。

ご都合がつく方はぜひいらしてください。

日程:11月10日(日)13時~15時半 
場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html
参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/W5YKD

★12月22日に予定していたお話会は、台風19号の振り替え講座のため中止となりました。
それに代わり、来年1月5日(日)に開催を予定しています。非二元年明け会♪

私たちは眠った神♪ この世は眠った神の夢

ものすごくしつこいけど大切だから何度も立ち返りたい♪

非二元とはどういう意味だろう?

二つじゃない。何が二つじゃないのか?

それは、主体と客体の二つではないという意味。

観察者と観察されるものの二つがあるのではないということ。

つまり、私がご飯を食べているのではなく、
私が映画を見ているのではなく、
また、私が音楽を聴いているのではない、ということ。

どういうこと?

まず、見ている私というのがほんとうにいるのか“今ここ”を見つめてみませんか?

このブログでは何度も書きましたね。

体の持ち主はいる?思いや感情の持ち主はいる?
それとも、体、思い、感情があるだけ?

では、その体、思い、感情のほんとうの持ち主は誰(または何)?

気づいている意識にあり続けたとき、すべては気づきの意識である自分の中で起き、そして起きているすべては気づきの意識そのものであると見えてくるはず。

つまり、気づいている意識しか存在していないということ。

言い換えれば、すべては神であるということ。

えっ、では、なんで世の中にはこんなに醜いこと、悲惨なことが起きるの?

気づいている意識(神)は、神羅万象のすべてであり、惑星、地球、宇宙に存在するすべて、または暖かさ、寒さ、明るさ、暗さ、透明、不透明、どんな形にもどんな状態にもなり、その可能性は無限だ。

そしてその無限の可能性の一つが、神である自分を忘れる、眠るということ。

眠った神は、自分は分離した個人であるという夢を見て、それが現実であるとすっかり思い込み、自分は何か足りないと思い始める。

自分は何かが足りない、自分を守る必要がある、生き残るために手を尽くすのだ。

人よりも優位に立ちたい、他国よりも資源を持ちたい、自分の欠けた感覚を他人をコントロールすることで埋めたい、分離している相手よりも自分が大切だ・・・。

そうやって眠った神は夢の中であらゆる“現実”を生み出し、あらゆる経験をする。

でも、夢を見て、夢を経験しているのは誰だろう?

あなたが夜夢を見て、夢の中でライオンに追っかけられたとして、それを見ているのは夢の中の追っかけられているあなた?

それとも夢を見ているあなた?

そう、この世は神が自分を忘れて、神がみている夢。

神しか存在しておらず、二つではない。

あなたがこの世を経験しているのではない。

それが分かれば、あなたはあなたから自由になり、

そしてあなた自身をもっと慈しみ、楽しむことだろう♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ ☆☆☆

久しぶりにリアルお話会を開催いたします。

日程:10月20日(日)13時~15時半

場所:香音里(東西線神楽坂駅徒歩1分)
http://www.ko-o-ri.com/contents/information.html

参加費:5000円

お申込みフォーム
https://www.form-answer.com/applications/F4TPE

悟りで空腹は満たされないけど・・・。

なんだかんだといって、この人生が大切だ。

明日の食べるもの、今月の家賃、

自己の本質とか非二元ではお腹がいっぱいにならない。

自我は私たちにそうささやいて、私たちを夢にとどまらせる。

自我の一番の目的、そして情熱は、もちろん自分の生き残りだから、

世界を見渡せば、自分を守ること、守るために相手を攻撃すること、
そんな自我たちのふるまいで満たされているようにも見える。

なんていったって、私が生き残ることは大切なのだ、
そうでなければ、私は死んでしまうかもしれない。

生き残るために頑張ってどこが悪い。

でもね、と本質はささやく、

明日が不安な時、生きていける術がないように見えるとき、

静かに耳を澄ましてごらん。

人生を捨てようと言っているのではないよ。

よく見てごらん。

“生き残ることが大切だ”と言っているのは誰?

よく見てごらん。

そこにあるのは、「私という感覚」とその思考だけ。

そしてあたかも、その「私という感覚」がそう言っているように見えるよね。でも「私という感覚」をよく見てみよう。

そこにほんとうに「私」はいる? それとも最後まで感覚があるだけ?

「私という感覚」は、体に属しているのではなく、あまねくすべてを包括し、すべてに浸透している。

「私」の中に世界が現れ、「私」の中に世界が消えていく。

それがはっきりしてくるまで静かに存在によりそってみよう。

そう、生き残らなければいけない「あなた」は幻だと見えるまで。

とても健気で、いとおしい幻。

あぁ、でも、あまりに多くの歴史、あまりに多くの感情、願い、望み、絶望、喜び、そして生きたいという思い。
あまりにリアルで幻だなんて言ってほしくない。

もちろんよく分かるよ。あなたを否定しているわけでないよ。

あなたの心の繊細なひだまで、あなたの本質はちゃんと知っている。

あなたが気がつかない自分の心の隅々まで、ちゃんと受容されていて、愛されている。

あなたがどんなに孤独だと思っているときも、
誰も理解してくれないと思っているときも。

なぜなら、あなたの孤独な思いも本質そのものだから。

あなたは幻だということは、あなたはいなくて、神しかこの世に存在していないということ。

だから私が幻だというとき、それはあなたの生き残りは保障されているということだよ。

それが見えてきたとき、あなたはあなたというユニークな人生を今以上にめいっぱい生きて、
そしてあなたはいつも大丈夫だとわかっているだろう。

だから人生がまさに難しい時、静けさの中に本質の自分を見つけ出してみない?

すべての思考を信じるのをやめてみる♪

なぜ私たちの思考はいつもぐるぐると忙しいのでしょう?

瞑想しようとしても、すぐに何か考えてしまう。
もういい加減考えたくもないのに考えが浮かんできてしまう。
ハートの声を聞こうとしても、すぐ考えに戻ってしまう。

ある意味、私たち、または自我は思考中毒ですよね。

どうしてでしょう?

自我の構成要素とは、思考と感情、感覚、そして体ですね。この要素のどの一つでも欠けると、いわゆる「(個の)わたし」は成り立ちません。

つまり、思考が完全になくなってしまうと、「自我のわたし」は消えてしまいます。

え、ほんと?と思う方は、誰か人数が、“今からあなたから考えるという能力を一切取り去ります。体と感情だけはありますが、考えはゼロになります。”と言われたと想像してみてください。

把握できるものがなくなり、まったくわからない世界に突入していかないでしょうか? 個としての自分がいるかどうかさえ分からない。

そう、自我にとって思考は存在の拠り所でもあるんですね。ですから当然手放せません。なので、基本的に私たちは思考によって安心しようとする強い癖があります。

例えば、何かチャレンジが続いたとき、“神はあなたが乗り越えられないチャレンジは与えない”といった言葉に出会い、そうか!乗り越えられるはずだ、私はその力があるとみなされているだ、大丈夫なんだ、と苦しい中でも安心できます。

この言葉が真実かどうかは実は誰にも分りません。でも、ある思いを信じることで、私たちは安心できるんです。

もちろん、そういう思いを持ってはいけないという話ではまったくありません。自分に力をくれる言葉、前向きにしてくれる言葉は、どんどん活用したほうが良いと思います。私自身もいくつも好きな言葉があります。

または、“心の弱い人が鬱になる”とどこかで読んで落ち込んでいたのが、“鬱は自律神経の不均衡で起きるもので性格とは関係ありません”と知ったら、少し気分が楽になるとか。

鬱であるという状況は変わってはいないけど、“弱い自分”という考えから“自分が悪いわけではない”という考え(理解)に変わって少し安心できますね。

再び、どちらの情報もどこまで真実か分かりませんが、ある思いになる(=ある思いを信じる)ことでちょっと救われる。

こうやってみれば、思考が私たちを苦しめるというより、思考を信じることが私たちを苦しめ、またある思考を信じることで安心するんですね。
ただ、普段の私たちは、思考を信じているという自覚はなく、頭に浮かぶ思いはすべて鵜呑みにして、ただ考えているだけですが。

ともかく、繰り返しになりますが、思考で安心したいという傾向が強いため、大変なときほど無意識に私たちは考えの中で安心する思いを探そうともがきます。 “そうか、そうだよね”と安心できる思考、“なるほど、だからなのか”と腑に落ちる思考、“そうすれば良いのだ!”と解決方法を見出してくれる思考などなどを無意識に探しているんですね。

そう振り返ってみると、悩んでいるときの思考には、“なぜあの人は・・・”、“どうして私に・・・”、“これに何か意味はあるのか?”など、“なぜ?”思考や意味を求める思考が多くないですか?

楽になる思いを見つけて、それを信じることでほっとしたい。心の悩みでアドバイスを求めるのも、誰かの言葉を信じたい。

さて、思いを信じるといえば、自我が究極に信じている“思い違い”があります。

それは、“自分は分離した個であって、個としての自分が世界を経験している”という思い違いです。

エックハルト・トールがいうように「アイデンティティの勘違い」をしているんです。

ということで、思考を止めるというよりは、すべての思考を一切信じることをちょっと辞めてみてください。一切です。

繰り返しますが、思考を止めるより、信じることをやめてみるんです。(思考は浮かんでくるので)

思考というより事実でしょう~というような思い、私がいる、社会がある、世界がある、みたいな思いもすべてです。

な~~んにも信じない。

うまくやれていたら、あなたは未知の世界に突入しているはずです。

そのままそこにじっとしていましょう。

もはや自分の人生を図る尺度もなく、時系列も消えて、なにもかもが定義できなくなっているはずです。

さらに続けてみてください。

自分というものの境界があやふやになり、時系列を失えば、自分の人生もあやふやになり、感情(楽しい、悲しいといった定義も手放す)や体の感覚も捉えられないものになるでしょう。体の所有者が消え、“あなた”とは関係のないものになっていきます。

それでも、“あなた”は完ぺきに存在していますね。すべてがあやふやになっても、存在そのものはあって、そしてただ気づいている。

それだけが唯一の実体で、それがほんとうの「わたし」(I am that I am)です。

そして、その「わたし」があたかも実体があるような「個の私」を経験しているんですね。

これを頭で理解しようとすると迷い子になってしまうかもしれません。

でも、どうでしょう? 思考を一切信じないだけで、本質の自分があっという間に顔をだしませんか?

ここにくつろぐことができれば、何もわからないにもかかわらず、絶対的な存在である自分が安心そのものであると感じるでしょう。

そして、頭で理解できなかったことも、だんだん体験的にわかってくるはず。

ぜひ何度もお試しを~♪