容赦なき恩寵♪

人生が思い通りに行かないとか、スムースに行かないとき、
自分が悪いのだとずっと思っていた。

本当はものごとはうまく行くはずで、
誰もが幸せになれるように、私も幸せになれるはずだから、
きっと私が何か見えていないに違いない
私の癒されていない恐れが一歩を踏み出せないから?
私の気づかない思い込みが幸せを妨げているのかも?

解決できない私はダメだ、苦しんでいる私はダメだ、
ものごとを良い方向へ持って行けない私はスピリチュアル落伍者だ、

でもだんだん、解決できないものがある、うまくいかないものがあるということが、
しっかり捉えることができ始めてきた。

自分も他者もどんなに愛する人でも救えないことがあることも。

それは誰が悪いのでもなく、ただそうでしかなくて、事実は頑固だけど真実に満ちていた。

随分と長い時間を費やしたけど、私の中でなにかが成熟して行き、心は穏やかになっていった。

実はそれは恩寵だったと気づいたのは、ずいぶん後のことだった。

うまく行かない人生という名の恩寵
苦しみという名の恩寵
それは、人生はいつもうまく行くはずという夢からの目覚め。

それから、私の心は解決よりも降伏を求めるようになり、ものごとがうまく行くことよりも、
真実を忘れないでいたいと願うようになった。

「受容」という本質のエネルギーが私に微笑み、真実への目覚めが少しづつ水面下で準備されていった。

あぁ、私はずっと恩寵に導かれていたのだ。

非二元の真実は、自我の妄想(いつもすべてがスムースに行って欲しい)を肥大化させるものではなく、
そこから目覚めさせるもの。

それはほんとうに優しくて、同時にまったく容赦ない。

でも、それは無限の受容でゆるぎない愛♪

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

“ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 東京

2016年12月17日(土)13:30~16:30

キャンセル待ち募集中☆

“ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 名古屋

2016年12月3日(土)13:30~16:30

残席わずか☆

心のほんとうの逃げ場♪

これほど明らかなのに、みながつかめないのは、
それは文字通り、確実にあるのに唯一つかめないから。

つかめるものしか知らないから、悟りもつかめるものだと思ってしまう。
悟りとは~~であると理解する、捉える、その状態になる・・ぜんぶつかむという話。

思えば、物心がついてからずっと私たちはつかめるものを描き、求めてきただろう。
幼い少女は自分が何かになったり、得たりできることを知っていて、
「私の人生」の夢を見る。

私は大きくなったら何になるの?
可愛くなれる?
お金持ちになれる?
ケ・セラ・セラ

恋人と一緒にいる時間
お願い、時が止まってほしい。
このままずっとこの状態が続いたら良いのに。

やがて私たちは気がつく
実のならなかった夢もたくさんあって、
実った夢も必ず去っていく。

生命の輝きに満ちた誕生もやがては死を迎える

それでも、私たちは形あるもののなか、つかめるものの中に幸せを求め続ける。

あれが引き寄せられたら、
人生がどんどん良くなる法則を見つけたら、
お金に一生困らない方法を知ったら
状況が変わったら、
自分を愛せたら、
悟りを会得したら・・・、

でも、形あるものは必ず変化し、必ず変化するということは、
そこに実体はないということ。色すなわち空~☆

だから意味がないとか、求めるなとか、そういう話をしたいのではなく、
自分が幸せを求めているとき、ちょっと見つめてみませんか?

自分の思いの中のどこかに、
“そうなれば安泰”、“それが手に入ればとりあえず幸せ(それが続くはず)”
といったものがないだろうか?

はかなく去っていくと本当に分かっていて、私たちは必死に何かを求めるだろうか?

私(個の)がいつかどうにかなる(幸せになる、悟る、etc)というストーリーを全力で生きていないだろうか?

もう一度それが良いとか悪いとかではなく、ただそれは苦しみを生みがち。

幻を実体だと信じれば信じるほど私たちは苦しむ。

言い換えれば、もしあなたが今苦しんでいるとしたら、
何か実体のないものを絶対的な事実だと思い込んでいるから。
変化するものを常なものにしようと抗っているから。
そもそも持続する幸せはかたちの中にないから。

だから、リラックスして、唯一つかめないもの、気づいている意識、全体、生命、etc, にただあってみるのも良いだろう。

あらゆる経験が去るなか、常にあって、変化しないもの。

つかもうとするのではなく、すべてを止めて、ただあってみる。

かたちの中での幸せをがむしゃらに求めるのではなく、
とりあえず自分の本質(気づいている意識)にただあってみる。

もちろん、そこから夢も情熱も沸いてくるだろう。すべては勝手に起きているから。

でももし本質が腑に落ちたら、夢は実現するものでも、または「私の幸せ」がかかっているのでもなく、
自分の中に現れる愛しいものの一つとなる。

人生は自分の中に沸いてくるすべてのものを愛する歌に変わるだろう。

夢、情熱、喜び、そして悲しみ、寂しさ、失望・・・・・。

すべてを全力で愛する歌♪

執着と期待のない愛、受容。抱きしめて手放せる愛。

人生に夢を見た幼い少女は苦しみを知って、ここがホームだと思い出す。

ケ・セラ・セラ

夢を見ていても、目覚めても、(真の)わたしはいつも常にここにいる。 

すべてが去っても。(*^_^*)

そして、一度も離れたことはなく、いや離れることはできなくて、
だからここは、かたち(人生)にくたびれたときの私たちの一番の逃げ場。(*^_^*)

PS:もし、今苦しくて仕方がないのなら、やっぱりセラピーをお薦めします☆
 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

“ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 名古屋

2016年12月3日(土)13:30~16:30

だから、ここにある!終わり♪

一見、やけっぱちなタイトルになってしまいました(笑)。

自我は動き回って、いろいろ考えたり、感じたりしているこの自分が“わたし”で、自分の目に見える世界が現実だとふか~く感じているから、悟りとか真実は、いまここに明らかになっている・・と、なかなか思えないでしょう。

だから、その自分がいつか空の状態になるのだとか、またはシフとして主体と客体がない世界が見えてくるのだとか、こことは別に時空がない次元があるとか、どうしても真実を今と違うどこかに想定しがちですね。

でも、ここが「空」であって、「主体と客体もなく」、そして時空がないんです。ここが!

それをまず押さえないと、自我はずっと「今と違う状態」、「違う場所」を求め続けてしまうでしょう。

こうすれば、真我とつながれる、こうすれば「私がいない」状態になる、死んだらそれが分かる、高い波動につながれば、時空のない高い次元に移行できる・・・、などなど。

いろいろありますが、たぶん、今ある多くの勘違いは、一瞥体験などをしないと分からない、“解放”が起きないと分からないというものかもしれません。

でもそれらは、それがあったほうが真実が見えやすいということだけなんです。一瞥体験なしでも、解放が起きなくても、直接見つめていくだけで、自己の不在も時空の幻想も見えてきますね。

なぜなら、もうすでにここにいつも真実は明らかに、否定しようもなくあるから。すでにあるものを知るのに、どうして違う場所や未来(死んだら・・・、解放が起きたら・・・)という存在しない時を設定する必要があるでしょうか?

般若心経の出だしに「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄」という一文がありますね。

ちなみに、現代語に直訳している英文を見たとき、めっちゃわかりやすい!と私は思いました。ので、英文もつけてしまおう。↓

Avalokitesvara Bodhisattva, while moving to the deep course of Perfect Understading, clearly saw that the five skandhas (the body, feelings, perceptions, mental formations, consciousness ) are all empty, and was saved from all suffering and distress.
「観自在菩薩が真実の完全なる理解に深く入っていったとき、五蘊(体、感情・感覚、認識、思考(意志)、意識)は、同等にすべて空っぽであるとはっきり見抜き、すべての苦悩から救われた。」

五蘊が空っぽだと見抜くためには、五蘊をただ深く見つめていく必要があるでしょう。また、これらの五蘊に同化していれば、当然それは見えてこないですね。

つまり、私たちは普段、考えや感情、体に完全に同化し、それらでものごとを認識しているから、真実はすでにいつも明らかになっているのに見過ごしてしまうんですね。

ちなみに、深く見ていく(瞑想する)とは、考えや感覚などを通さずに直に見る(ダイレクトパス)ということです。

私の先生(と勝手に呼んでいる)であるルパート・スパイラは、“考える行為(thinking)は何でできているか?”という質問を私に投げかけました。

考えが何でできているか?を考えて答えを出すのではなく、考えるという行為(考えている内容ではなく)をただ見つめるんです。

ルパートさんにうながされたまま、ただあるものを見ていくと、考えるという行為も考えも見事に空っぽであり、そして同時にそれは気づいている意識でもある!と、ある瞬間に全身で腑に落ちたのです。

もちろん、これだけで真実のすべてが分かったということでは全くありませんし、その後もいくつもの気づきを経ていきました。(経ています。現在進行形)

おそらく、真実が見え切ったと思ってしまったら、それは何か逆に限界、限定的なことに陥っているはずでしょう。

でも、少なくとも真実はいますでに明らかになっているということ、どこか違う場所、違う時を想定するのではないことが見えてくるはずです。

そして、この体でも、感情でも、感覚でも、認識行為、考え、意志などなどでもない、唯一捉えられないもの。常にあるもの。

それは、静けさより静かで、だから無言に平和で、徹底的な受容でもあり、すべての人に常に用意されている逃げ場、安らぎの場、そして真の私たちそのものですね♪

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

“ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 名古屋

2016年12月3日(土)13:30~16:30

“ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 東京

2016年11月22日(火)18:30~21:00

受容の中に答えがある♪

自我が、“これは私だ”というとき、
それは必ず良いものであって欲しいと願う。

私の体
私の思い
私の感情
私の人生

きれいな容姿が良い
ポジティブな思いや感情が良い
楽しいことがたくさんある人生が良い

これは自我の生きる動機、発露であるとともに
たいていの良くしようという試みには、今への否定があり、
だから苦しみももれなくついてくる

気づいている意識、空、純粋意識、全体、etcが
“これは私だ”というとき、

体も思いも感情もすべて完全に自由になる

良い悪い、好き嫌い、レッテル、解釈、判断という
思考の枠からすっかり自由になる!

完全に自由になって気がつく、あっ、自由って
完全な受容の中からしか生まれないんだ・・・。

だから、

悲しみも
退屈さも
後悔も
迷いも
恨み、妬みも

失敗や間違い、損失も
病や事故も
欝や引きこもり、
貧困、世の中の不公平、
戦争や災害も

すべてはあって良くて・・・、と書くと誤解を生むだろう
言い換えれば、それらはすべてすでにここにあって、
つまり、それらはあることが完全に許されていて、
そして、すでにあるものを否定することはできない(遅すぎ)

だから、それらがすべてすでに受け入れられていることに気づいてみよう

そして、その受容の静けさの中にただいてみる
受容とは、決してただ甘んじる、あきらめる、何もしない、受身になる
という意味ではなく、無条件の愛という静けさと生命の発動がある場

思考で忙しく答えを出そうとしていると気づけないけど、

愛は必ず叡智を携えている

愛=受容=智慧=癒し

受容とはだから、否定や恐れではなくて愛が答えを出してくれる場

ものごとが本当に癒される場

何をしたいか、何をしたら良いか、自ずと現われてくる場

いい?これは待ちゲームだよ。急がないこと♪ 急ぐのは思考だから

受容がしっかり見えてくるまでじっと待とう

それがあなたのなかに無限に用意されていると分かるまで

というか、あなたはほんとうは受容そのもの

だから、自分の中にあるものや起きていることと戦わなくて良いよね♪

 

           ☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

12月3日(土)名古屋にて「ノンデュアリティと癒しのカフェ」開催♪
詳細は近々アップいたします。(※名古屋、大阪は誰かが主催してくださる
場合のにみ開催しています)

実は密かに東京「ノンデュアリティと癒しのカフェ」も開催しています。
案内希望の方は、nondualseminar@gmail.comまで「東京カフェ案内希望」
としてお送りください♪

「色」を味わいつくす♪

自我はけっこう自分をもてあましているから、
「空」への憧れが密かにすべての自我の中になあるのかもしれない。

自分が消えて、このうんざりする不幸感をチャラにしたい。

そして、こんな自分は真実とか愛には程遠いけど、
あらゆるものの「非在」、そこにこそ真実という救済があるのだ!

「空性」への憧れ。

そんなものがあるかもしれない。

だとしたら、「色(現象)」はまがい物?
真実を曇らす邪魔もの?

色即是空
空即是色

と言うけど、色(現象)は幻想であってはかないもので、
限りがあって、一時的なもの。本当は何も起きていないし、
結局「空」に辿りつくのだから、「色」を見つめても仕方がない・・・・。

だから「空」を目指すのだ!
「色(自我)」からの解放だ!

でも、忘れてならないのは、空とは何もないという意味ではないということ。

空は、愛であって受容であって、智慧であり、静けさ、そして生命。

あらゆる現象(色)で隅々まで満たされている。

「空」をハートに言い換えてみたらどうだろう?

マインドではなく、ハートを通して世界を見てみたら?

ハートはものごとを解釈せず、レッテルを貼らず、定義づけも
せず、ストーリーも作らない。だから時間も空間もそこにはない。

椅子と机とか、部屋の中の音、外の音、あちら、こちらという
レッテル貼りが消えたとき、

そこには分離のない一連の現象があるだけ。

もしかすると、ハートのあたりにあらゆる感情や感覚を感じるかもしれない。

締め付けられている感じ、悲しみ、罪悪感、悔しさ、焦り・・・

または怒り、空虚感、自己嫌悪・・・。

マインドはうるさく判断し、それらの感情はあってはならないと
言ってくるだろう。

でも、ハートに寄り添ってみると、

すべてが静かに受容されている。

あらゆる感情は何一つ文句なしに、自由にどこに現われてもよくて、
100%無条件に受け入れられている。

そのまま寄り添い続けてみる。

批判や解釈から自由になった感情や感覚は、好きなように変化し、
大きくなったり、小さくなったり、場所が移ったり、形を変えたり、
そして、そのうち周囲のエネルギーに混ざっていくだろう。

でもまた新たな感情や感覚が次々に現れ、思いや記憶も出てくるかもしれない。

それでも、あなたはすべてに降参し、ただハートに寄り添っている。

すると、ハートと感情は決して分けられない、怒りと受容は決して
分けられない、愛と悲しみも分けられない・・・・・、

すべては愛からしか生まれていない!
(ポジティブ、ネガティブの二極の崩壊)

しかも、私はこのすべてを愛していたのだ!

悲惨な出来事もなにもかも!

そのままハートに寄り添っていると、だんだん、ハートとは
気づいている意識の別名であると分かってくるだろう。

そして、自我の私はハートの中で現われては消えていく、愛おしい現象。

自己の不在を知って、はじめて本当の意味で自分を愛するということが
分かるのかもしれない。

色を味わいつくせば、「空」にしか辿りつかない。
でも、その「空」は愛と受容に満ちている。

こんなに近いところにあった愛、静けさ。

そして、世の中で起きる悲惨な出来事を愛で支え、そしてそこから
生まれる衝動(行い)があって、それをやるだけ。

シンプルな幻想の壊し方♪

最初は、呼吸や自分に思考や捉えられるものを静かに
眺めることから始められるかもしれない。

そうやって捉えられるものを見ていくうちに、自分だと
思っていたもの。

手がひざに乗っている感覚
お尻が椅子に接触している感覚
私が“こっち側”にいるような感じ
顔の辺りの感覚
胸や頭の感覚や
自分がいるような重量感

自分だと思っているものがすべて捉えれることに気づいていく。

そして、それらの感覚や呼吸、思考に注意を向ければ向けるほど、
それが常に変化していることも気づいてくだろう。

だんだん、それらは観察している私から、観察されているものに変化し、
観察者という「幻想」が崩れていく。

呼吸と時計の音は一緒に変化のダンスを舞い、

体の重量感と車の飛行機の音も同じダンスの一部。

観察していたはずのこっち側の私は、あっち側の風景とブレンドされていて、

私だと思っていた私は、観察される変化の一つだった・・・。

じゃぁ、ここで誰が観察しているの?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ただ静かにそこに居続けてみよう。

わずかに残っている観察者がすべて変化の一部だと分かるまで。

(二元の崩壊)

そして、

一つのエネルギーだけがそこで舞を舞っている。

一切の分離もなく、

主体と客体、観察者と観察されるものも消え、

それしかなくて、

「それ」がわたし♪

矛盾を軽々と超えるハート♪

自己の不在を見抜くことは、分離の幻想から抜け出す一つの大きな鍵であることは間違いないでしょう。

でも、今日は個人的にはもっと大切だと思っていることを書いてしまおう。うふふ。

ということで、自我=思考といっても良いぐらい、人ってほんとうに考え、考え、そして考えていますよね。なので、悟りやノンデュアリティも頭では捉えられないと知っていても、つい考えてしまったり。

そこでご提案です。

世界や出来事を考えではなく、ハートを通して捉えてみませんか?

これを読んだ瞬間、戸惑ってしまう人も多いかもしれません。

長年に渡って思考で把握する訓練(学校教育などで)や癖をある意味強いられてきましたから、“ハートで捉えるって?どうやるの?”みたいな。

でも、一般社会はともかく、心を扱う分野でも、また悟りやノンデュアリティの世界でさえも、思考がものすごく活躍しているなぁと感じるのです。

というより自我は、“なるほど!分かった!そう考えれば良いのだ、そうすれば良いのだ!”、という理解&方法を知ることに快感を感じているものです。

なので、経験やハートに持っていこうとすると、とたんに興味を失う人も多いですね。

ですが、ハートの持つ智慧は、思考の智慧よりもはるかに深く、思考が超えられない矛盾を軽々と超えることができるんです。

世間で起きている悲惨な事件を思考は、こんなひどいこと、かわいそうなことが起きているのに、“起きていることが起きているだけ”とか、“すべてはありのままで完璧”とか言ってしまうの???

と、悲惨なことと完璧がどうしても相容れないでしょう。

でも、これらをハートを通して眺めてみるとどうでしょうか?
ハートの声は思考とはまったく違うことを言っているはずです。

例えば、家族が突然困難な病気になってしまったとしますね。

思考は、どうしたら良いのだろう? こんなことがなぜ自分に起きるのだ? 治らなかったらどうしよう。これからやっていけるのか? あのときなぜ気づかなかった・・・などなど、HowやWhyや過去や未来に思いが飛んでいくでしょう。(それが悪いことだと言っているのではありません)

でも、ハートで感じてみたら?

ハートは、シンプルに“私の大切なものが壊れていく、怖い、悲しい”とだけ言っているかもしれません。

そしてそこでどうにかしようとせず、よ~くハートに留まり続けたら、それらの思いや感情がなんの批判もなしに、100%受け入れられていることが分かるはずです。そこはもうハートという気づいている意識(awareness)のスペース。

気づいている意識のなかに、その思いや感情が現れ、それは無条件の愛で支えられている。

そこで、これらの思いや感情はこの無条件の愛によって変容し、癒されていきます。

そこにはなんの矛盾もなく、良い悪いもなく、なくそう、変えようという操作もなく、あるがままが完全に許されているんです。

で、それが癒しであり、完全性であることを思考には理解できないでしょう。思考は悲惨なことはそもそも起きるべきではないなど形にこだわるので。

また、思考に引っ張られていると、私たちはこのハートの声をすっかりスルー(抑圧)してしまいます。結果、これらの思いや感情は癒される機会を与えられず、そして私たちは苦しんでしまいます。

様々な思いや恐れ、自己否定感などでハートを閉ざしている人も多いでしょう。
自我にとってハートを開くことは、無防備になることだったりもします。

しかし、現れるあらゆるものが支えられていることをよ~く感じれば、ハートがいかに教鞭で思考がいかにもろいものかも感じられてくるはずです。

思考には受け入れられないことがたくさんありますが、ハートは常にすべて受け入れているんです。

そして、そこにただあり続ければ、すべての出来事は現れては消えていく物語であって、そこで傷ついた人もいないことも見えてくるでしょう。

なので、真実を理解しようとするよりも、自分の心がどれぐらいオープンになれるのか?どれぐらい分離の幻想から自由になっているか?

今日はそれをちょっと振り返ってみませんか?