気づきの意識が、あゆかを通してあゆかの世界を経験している。
つまり、あゆかが一人で部屋で映画を楽しんでいるとき、
映画を見ているのは、気づきの意識
面白いと思っているのは、気づきの意識
あゆかはいなくて(私はいない)、
気づきの意識だけがある(私はある=I AM)
これは思想でも、理論でも、人をけむに巻く話でもなく、
思考をわきにおいて、深く深くあるがままに観察すれば、
誰もが最終的に到達する事実。
神はあなたに経験を託したのではなく、あなたは神そのもので、
この世には神しかいない。
それが存在の秘密であって、そして目覚めのはじまり。
あゆかという現象はあるけど、そこに経験者はいない。
喜んでいる誰かも苦しんでいる誰かもいない。
でも、ここで気をつけよう。 “苦しんでいる誰かはいない”と
頭で苦しみをねじ伏せないこと。
なぜなら、苦しみの底には目覚めへの欲求があるから。
苦しみはとは、幻想の深い闇。ある意味神が深い眠りについた場所。
そして眠りから覚めたいという神の衝動が最も現れる場所。
だから目覚めとは、あゆかという夢から目覚めること。
そのときあゆかという経験者はいなくて、最初から神(=気づきの意識=空)しか存在していなかったと知る。
神のみが存在する。
でも、空即是色。
神しかいないと知っても、あゆかの人生は続き、
神(空)とあゆか(色)は、決して分けられない。(二つに非ず)
だからどんなに目覚めても、神はあゆかという夢を見続ける、
しかし今度は夢を見ているのはあゆかじゃなくて、
神としての私(I AM)だと知りながら。
ということで、やっぱり最後は何度も書いた引用で、
The eye through which I see God is the same eye through which God sees me; my eye and God’s eye are one eye, one seeing, one knowing, one love.”
私が神を見る目と神が私を見る目は同じ。私の目と神の目は一つの目、一つの見る経験、
一つの知る経験、そして一つの愛♪
※Seeingとknowingは、行為を表しているので経験と意訳しました。
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広い部屋に変更しました。募集を再開します♪