今まで勘違いは、数え切れないほどしてきましたが、たぶん、私が長い間
していた最も大きな勘違いの一つは、自分が主体だと思っていたことかもしれません。
でも、主体―客体の関係で言えば、「わたし」(自我)は客体なんですね。
なぜなら、観察できるからです。
そういう意味で、私の体も目の前のパソコンも同じグループです。
しかしほとんどの人は、自我の私(主体)がパソコン(客体)を打っている
という知覚で生きていますよね。
で、非二元のメッセージは、これが錯覚だよ~ということなんです。
ここで本当に起きていることは、経験者と経験されるものなしに、
一つの“経験”(=気づきの意識)があるだけです。
主体なしに見る、聞く、感じるといった経験が起きているだけですね。
でも、私が主体だと錯覚すれば、私とパソコン、私とコップ、私と世界
というように分離の世界が広がります。
そして、私とパソコンの間の距離が生まれ、私が日本からイギリスへ帰る
という空間の移動が生まれ、そして当然時間が生まれます。
それは、単純に体、思い、感情の総体である自我が主体だと錯覚している
からなんです。
でもこの錯覚はほんとうに深く刷り込まれているので、どうしてもそっち
が実体であるように感じてしまいますね。
逆に非二元のメッセージのほうが遠い感じがするかもしれません。
そのためか、 ときどき“現象の世界では、”とか、“二元の世界では”
という言い方を耳にしたりしますね。
でも、決して現象の世界と真実の世界、二元の世界と一元の世界という
分かれた世界が二つがあるわけではありません。
単に錯覚があるだけです。
ものごとを分けて考えたとたん、思考の中、夢の中です。
「わたし」が主体であるという錯覚が落ちていくと、同時に“私のストーリー”
も落ちていきます。
そうすると・・・、
そう、切れ目のない全体のストーリーの幕開けです♪