月別アーカイブ: 2015年6月

錯覚が落ちると・・・・

今まで勘違いは、数え切れないほどしてきましたが、たぶん、私が長い間
していた最も大きな勘違いの一つは、自分が主体だと思っていたことかもしれません。

でも、主体―客体の関係で言えば、「わたし」(自我)は客体なんですね。

なぜなら、観察できるからです。

そういう意味で、私の体も目の前のパソコンも同じグループです。

しかしほとんどの人は、自我の私(主体)がパソコン(客体)を打っている
という知覚で生きていますよね。

で、非二元のメッセージは、これが錯覚だよ~ということなんです。

ここで本当に起きていることは、経験者と経験されるものなしに、
一つの“経験”(=気づきの意識)があるだけです。

主体なしに見る、聞く、感じるといった経験が起きているだけですね。

でも、私が主体だと錯覚すれば、私とパソコン、私とコップ、私と世界
というように分離の世界が広がります。

そして、私とパソコンの間の距離が生まれ、私が日本からイギリスへ帰る
という空間の移動が生まれ、そして当然時間が生まれます。

それは、単純に体、思い、感情の総体である自我が主体だと錯覚している
からなんです。

でもこの錯覚はほんとうに深く刷り込まれているので、どうしてもそっち
が実体であるように感じてしまいますね。

逆に非二元のメッセージのほうが遠い感じがするかもしれません。

そのためか、 ときどき“現象の世界では、”とか、“二元の世界では”
という言い方を耳にしたりしますね。

でも、決して現象の世界と真実の世界、二元の世界と一元の世界という
分かれた世界が二つがあるわけではありません。

単に錯覚があるだけです。

ものごとを分けて考えたとたん、思考の中、夢の中です。

「わたし」が主体であるという錯覚が落ちていくと、同時に“私のストーリー”
も落ちていきます。

そうすると・・・、

そう、切れ目のない全体のストーリーの幕開けです♪

シンプルな観察から真実を見よう♪

数年前、フランシス・ルシールが、「“(個の)私はいる”という思いがなければ、自分がどこにいるのか分からない」というのを聞いて、目からうろこが落ちまくったことがあります。

なぜなら、“(個の)私はいる”が単なる思考だなんて考えてもみなかったからです。

もちろん、地球上のほとんどの人がそう思っているでしょう。こんな話を普通にしたら、まったく通じないか、頭がおかしいと思われるかもしれません。

でも、思考をできるだけ取り去って、よくよく自分の直接の体験を見つめてみると、本当にここにあるのは、体の感覚や音や思考といった経験があるだけでした。

でも、「経験者(わたし)」はいないんです。

感じるという経験(体の感覚)
聞くという経験(自分の呼吸の音、人の声、車の音など)
見るという経験(自分の体、風景)
考えるという経験(思考、“私はいる”など)

これらがあるのみ。(簡単に書いていますが、じっくり丁寧にやってみてください。)

そして、経験の中で感覚や音や思考が沸いては消えていき、そのどれ一つも起こす主体が見当たらないまま、すべてがただ起きています。

外から聞こえる音、家の中の音という思考をはずすと、その二つの音に距離がないことが明白になってきます。

また、

体の感覚と車の音も、体(近い)、外(遠い)という思考を横に置いて経験に寄り添うと、そこには距離がまったくありません。つまり空間のないところ(←言葉の限界)で、あらゆる経験は起きているんですね。

では、それらの経験と気づいている意識の間には距離はあるでしょうか?
ないですよね? つまり、経験(色)=気づきの意識(空)ということです。

沸いてくる思考を含めて、あらゆることがただ起きて、起き続けています。

そして、同時にまったく変化しない気づきの意識がすべてに浸透しています。

変化と不変が同時にある神秘

でもこの非二元のメッセージ、例えば“すべてはただ起きている”を世界を理解する概念として捉えてしまわないようにして欲しいなぁと思うのです。

シンプルでダイレクトな観察で体験的にちゃんと理解できるんです。(ダイレクトパス)

もちろん、真実を見る手がかりとして、ある程度の思考の理解は助けになるでしょう。
でも、ものごとをいつも分かりやすく頭で捉えようとする癖を少し手放してみませんか?

頭で捉えて理解したものは、必ずどこかが歪曲していたり、妥協があります。

そして、その部分に言葉に表せない大いなる神秘と真実、愛が隠されているんです。

それを決して見失わないように。

すべての鍵は、いまここに♪

※フランシス・ルシール(Francis Lucille)は、ルパート・スパイラの先生です。

 

☆☆☆お知らせ☆☆☆

地球ひろしさんのearth-TVに6月20日(土)夜9時より出演します!
当日質問をしたい方は、アフリカTVの無料アカウントで入るか、
FB、ツイッターでチャットに入れるそうです。

非二元の目覚め、スピリチュアルな目覚め

前からずっと書きたいと思いつつ、受け取ってくれる人があまりいないような
気がして、書いていなかったことがあります。でも、ノンデュアリティーという
言葉が入ってきたこともあり、書いてしまおう。

なにかというと、

スピリチュアルな目覚めと非二元の目覚めがごっちゃになっている

ということです。

スピリチュアルな目覚めも非二元の目覚めも、「わたしがいない」
とか「一つの生命、エネルギー」とか、同じような言葉を使うので
ある意味混乱して当たり前かもしれません。

でも、二つはまったく違うメッセージなんです。というか、違うものと
捉えていたほうが混乱がないと思います。

スピリチュアルな目覚めは、私が宇宙、または一つの生命と融合
して、そのとき自分は消滅し、自分はいなかった! 自分は
ワンネスだったのだ!と分かった・・という話が多いでしょう。

これは、これで自我ができ得る最高の経験として素晴らしいと
思いますが、非二元のメッセージではありません。

これは、スピリチュアルなストーリーです。だから劣るとか、良く
ないとか言っているのではまったくありません。

私の大切な人たちも、スピリチュアルなメッセージを長い間発信
していますし、私はその人たちも、そしてメッセージも大好きです。

でも、違うものなんです。

非二元のメッセージは、宇宙やワンネスと融合する「私」が
そもそもいないということです。

そして、一番のポイントは、自分はいなかった!と知ったことではなく、
なぜそれに気づけるのか?です。

経験は認知することができますね。でも、唯一認知できないものは
何でしょうか?

そこを見過ごしてしまうと、たぶん「私はいなかった」という経験
(客体)に囚われてしまうかもしれません。

でも繰り返しますがポイントは、「私はいなかった」と気づいている
意識(awareness)のほうです。

個という私がいると思っていた、でも、いなかった!と知った
という“経験”は変化する話ですね。

でも、この話のなかでずっと変化せずにあるものは何でしょうか?

そう、気づきの意識です。極端な話、自我が何を発見し、どんな真実
を知ったのかは大きな問題ではないんです。

経験がどんなに素晴らしく壮大であっても、経験が真実を語っている
のではなく、あらゆる経験を静かにただ気づいている意識、それが実在
であり、真実なんです。

そして、この気づきの意識は、そういった覚醒体験をしているときも、
していないときも常にありますね。

真実を知るのに覚醒体験も見性体験もまったく必要ないんです。

唯一客体化できない、気づきの意識。

呼吸よりも身近にある意識。

あらゆる経験の前にあるもの。

そこにただあってみませんか?

そこには一切のストーリーもなく、だから時間も空間もなく、
幻想の私も存在せず、だから主体も客体もありません。

そういう世界が日常と別に存在するのではなく、いまここに
まさに日常のすべてに真実が充満しているんです!

ここがすでにいつも非二元なんです。

だから、いまここの<直接体験>を見つめて見ませんか?
見過ごしていた真実と必ず出会えるはず♪

 

 

 

世界は私の中にある

かつて、私は世界を眺めていた。
空や雲や夜空は遠くにあって、
とても私の手の届くものではなかった。

大木を見上げ、この木は今までどんなことを
目撃してきたのだろうかと思いを馳せたりしたものだ。

大木は私よりもずっと長くそこにあると思っていたから。

でも、真実の扉が開いて、

そこに長くいたのは、私のほうだったと気づいた。
何百年という樹齢を持つ木よりも長く、永遠に
そして私はすべてに浸透していた。

どこに目を置いても私でないものは何一つなく、
すべては昔から知っている親しみに包まれている

空も雲も星たちも、
すべては私から生まれ、そして私の中に消えていく

だから、探すよりも立ち止まってみよう

一番身近な「わたし(I am)」を見つめてみよう

思考が沸いてくる前にすでに「わたし(I am)」はいて
思考が去っていた後もいつもわたし(I am)」いる

“でも、深く寝ているときは「わたし」はいない”、
“それに生まれる前も「わたし」はいなかったよ”

思考がそう問いかけてくる

思考はいつも対象物が必要で、「ただある」という状態を知らないから
深い眠りや死によって世界が消えたとき、すべてがなくなると思っている
実際なくなったのは世界ではなくて、思考なのに。

でも、「わたし(I am)」によく寄り添ってごらん

あらゆるすべてが変化するなかで唯一変化しない「わたし(I am)」に

そして、唯一決して対象化できない「わたし(I am)」に

深く深く寄り添ってみよう、

そうすれば

「わたし(I am)」は、永遠に“ただある”「わたし(I am that I am)」だったことが
きっと見えてくるだろう。

私は今世界を眺めていて、
世界は私の中にある