ルパート・スパイラさんが「Know Yourself」の朗読をしているのを見て、また訳してみたくなりました♪ 同じ本が好きのが密かに嬉しい♪
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秘密があなたに明かされたとき、あなたは自分が神以外のなにものでもないと知り、あなた自身があなたが求めていたゴールであったと知るだろう。
あなた自身を取り除く必要もなく、あなたは存在しなかったことも、これから存在しないこともない。
あなたは神の資質をあなたの資質として、神の姿をあなたの姿として、神の内面もあなたの内面として、神の始めをあなたの始めとして微塵の疑いや不確定さもなく見るだろう。
あなたが神になるとか、神があなたになるというような見方もなしに、あなたは、あなたの資質を神の資質として、自分の本質を神の本質として見るだろう。
神の顔以外のものは、外側にあるものでも内側のものでもすべて去っていく。それはつまり、神以外には何も存在しないことを意味しているのだ。
神以外のものが存在したことはなく、あらゆるものが去り、神だけが残る。神の顔以外には何も存在しないのだ。
それは、あることをそれまで知らなかった人が、それをただ知るのと同じようなことだ。知ってその人の存在が消えることもなく、ただ無知だけが消滅する。
何か別のものに取って変わることもなく、存在はなにも変わらず、無知だった人が何かを得たり、何かと融合することもなく、無知が消えるだけなのだ。
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“神”という言葉を、純粋意識、気づきの意識、存在、生命、どんな言葉で置き換えても良いでしょう。
このメッセージの中の“あなた”という言葉も、いわゆる個のあなたではなく、神としてのあなたであるとして読まないと、分離している小さな自分は本当は神なのだという間違った捉え方をしてしまうかもしれません。
ですが、決してそういうことではなく、まさに小さなあなた(生まれて死んでいく)というものは存在せず、神しかいないということです。
また、自我は真実が見えたあかつきには、何かを得ているか、何かが変わっている、違う状態になっていると考えがちでしょう。
進歩があって、到達するという悟りのストーリーです。
でも、まったくそうではなくて、ここに語られているように“勘違い”が落ちるということです。何も変わらず、単に勘違いだけが落ちるということ。
“自分の本質に留まることができるようになったのですが、何かが起きると心が巻き込まれてしまいます”というおっしゃる方がそれなりにいます。(何を隠そう、私もそんなこと言っていました)
ですが、自分(自我)が本質に留まっている状態を続けられるかどうかではなく、そもそもあなたは自我ではないということです。
エックハルト・トーレも言うようにアイデンティティの間違いですね。
部屋で一人で音楽を聞いているとき、聞くという経験、音楽、沸き立つ思いや感情、記憶、そこにある体、すべてが神そのもの、生命そのもの、気づきの意識のみが存在する。
次の瞬間、腹の立つ言動を誰か家族がしてきたとして、我も忘れるほど反応し、怒りで体が張り裂けそうになって、その人が憎く見えたとしても、それは自我のあなたに戻ったのではなく、神が自身を束の間に忘れたということ。そしてまた神が神を思い出す。(本当の意味では決して忘れないけど)
神が隠れて、神が自らを見つけ、神のかくれんぼ。
すべては神の遊戯。
この世に神以外何も存在しない♪
※Know Yourself : 12世紀から13世紀に生きた、当時イスラムの世界の中でももっとも影響があったティーチャーと言われている、Ibn ‘Arabi / Balyaniのメッセージ
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ノンデュアリティと癒しのカフェ
2018年6月16日(土)14時~16時半
場所:あうるすぽっと(東池袋)
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参加費:4500円
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