月別アーカイブ: 2018年5月

神のかくれんぼ♪

ルパート・スパイラさんが「Know Yourself」の朗読をしているのを見て、また訳してみたくなりました♪ 同じ本が好きのが密かに嬉しい♪

☆・☆・☆・☆・☆

秘密があなたに明かされたとき、あなたは自分が神以外のなにものでもないと知り、あなた自身があなたが求めていたゴールであったと知るだろう。

あなた自身を取り除く必要もなく、あなたは存在しなかったことも、これから存在しないこともない。

あなたは神の資質をあなたの資質として、神の姿をあなたの姿として、神の内面もあなたの内面として、神の始めをあなたの始めとして微塵の疑いや不確定さもなく見るだろう。

あなたが神になるとか、神があなたになるというような見方もなしに、あなたは、あなたの資質を神の資質として、自分の本質を神の本質として見るだろう。

神の顔以外のものは、外側にあるものでも内側のものでもすべて去っていく。それはつまり、神以外には何も存在しないことを意味しているのだ。

神以外のものが存在したことはなく、あらゆるものが去り、神だけが残る。神の顔以外には何も存在しないのだ。

それは、あることをそれまで知らなかった人が、それをただ知るのと同じようなことだ。知ってその人の存在が消えることもなく、ただ無知だけが消滅する。

何か別のものに取って変わることもなく、存在はなにも変わらず、無知だった人が何かを得たり、何かと融合することもなく、無知が消えるだけなのだ。

☆・☆・☆・☆・☆

 

“神”という言葉を、純粋意識、気づきの意識、存在、生命、どんな言葉で置き換えても良いでしょう。

このメッセージの中の“あなた”という言葉も、いわゆる個のあなたではなく、神としてのあなたであるとして読まないと、分離している小さな自分は本当は神なのだという間違った捉え方をしてしまうかもしれません。

ですが、決してそういうことではなく、まさに小さなあなた(生まれて死んでいく)というものは存在せず、神しかいないということです。

また、自我は真実が見えたあかつきには、何かを得ているか、何かが変わっている、違う状態になっていると考えがちでしょう。

進歩があって、到達するという悟りのストーリーです。

でも、まったくそうではなくて、ここに語られているように“勘違い”が落ちるということです。何も変わらず、単に勘違いだけが落ちるということ。

 “自分の本質に留まることができるようになったのですが、何かが起きると心が巻き込まれてしまいます”というおっしゃる方がそれなりにいます。(何を隠そう、私もそんなこと言っていました)

ですが、自分(自我)が本質に留まっている状態を続けられるかどうかではなく、そもそもあなたは自我ではないということです。

エックハルト・トーレも言うようにアイデンティティの間違いですね。

部屋で一人で音楽を聞いているとき、聞くという経験、音楽、沸き立つ思いや感情、記憶、そこにある体、すべてが神そのもの、生命そのもの、気づきの意識のみが存在する。

次の瞬間、腹の立つ言動を誰か家族がしてきたとして、我も忘れるほど反応し、怒りで体が張り裂けそうになって、その人が憎く見えたとしても、それは自我のあなたに戻ったのではなく、神が自身を束の間に忘れたということ。そしてまた神が神を思い出す。(本当の意味では決して忘れないけど)

神が隠れて、神が自らを見つけ、神のかくれんぼ。

すべては神の遊戯。

この世に神以外何も存在しない♪

※Know Yourself : 12世紀から13世紀に生きた、当時イスラムの世界の中でももっとも影響があったティーチャーと言われている、Ibn ‘Arabi / Balyaniのメッセージ

☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ
2018年6月16日(土)14時~16時半
場所:あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
参加費:4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6BKYH

神が見ている夢♪

一度休止したはずのブログですが、再開することにしました♪ といっても、もうしているようなもので、思い出したかのように気楽に続けていきたいと思っています。

☆☆☆☆

幻想のあゆかには、いろいろなニーズがある。

あゆかは快適に住める場所が好きで、それがあゆかの心身の健康に大切だと思っている。

それはそれで、とても愛しいニーズだ。

でも、あゆかがなぜそれを求めるのだろう?と深く見ていくと、本当に欲しいのは、自分が安心できる場所、ここが自分の居場所だと思える場所、そしてそれが本当に見つかるのは、自分の中、本質そのもの自分の中だけだと知る。

外に求めていた意識が自分の中に向き、落ち着きが生まれる。

ところが少し経つと、心はまた外に探しに行く。今よりも良い場所、状況を求めて、思考があれこれ模索し始めるのだ。

幻想のあゆかはこれに気づいて笑ってしまう。

自分の中に留まるよりも、状況を変えたい、環境を変えたい、自分を変えたい。
外に向かった自我のエネルギーは、ほんとうに吸引力に満ちている。

希望、期待、喜び、失望、絶望、悲しみ。
あらゆる感情の波に乗って、自我の人生は「得ること」「変えること」に突き進む。

でも幻想のあゆかは、人生の秘密が少しだけ分かってきた。

この人生のドラマの真の姿を。

“神は私たちにこう伝えた。目は神を見ているのではない。神が神を見ている以外、この世に誰もいないのだ。”
God has informed us in His saying Eyes do not perceive Him that there is no other than He perceive Himself             「Know Yourself by Ibn ‘Arabi / Balyani」

そう、この世でドラマを経験している誰かはいないのだ。そして、すべてのドラマも夢であって、今まで何一つも起きてはいない。

そう聞くと、自我は何もないつまらない世界を想像するかもしれない。

でも、自我が気がついていないのは、個人のドラマの消滅は全体の現れへと変わるということ。

人生の出来事という、タペストリーの一部のデザインだけ見ていた状態から、タペストリー全体が現れ出てくるのだ。

タペストリーの模様は常に変化し、一つ一つは一瞬あたかも存在していたかのように見える。壮大なドラマが一瞬に現れては消えて、一つの悲劇も全体のタペストリーの中に抱えられ、そして消えていく。

幻想のあゆかは自分の人生についてどう生きるのか?どうこれから生きたいのか?と、よく振り返る。それはそれで、とても健気な思いで主体的な生き方だ。

あゆかは、なるべく良い選択をしようと思考を巡らし、将来後悔しない選択、痛い目に遭わないようにと一生懸命考える。

なんといってもあゆかにとって、より良く生き残ることは大切なことだからだ。

でも、幻想のあゆかがどんな選択をしようと、どの生き方を選ぼうと、それはすべて受け入れられ、あゆかの思考が、あることを成功、あることを失敗と判断しない限り、あゆかは常に祝福の中にいる。

すべては最初から許されている。

幻想のあゆかがあれこれ自分を批判し、否定し、後悔している間も、すべてはすでに許されている。

もちろん、幻想のあなたも。

そして、幻想のあゆかもあなたもいないのだから、それは神が見ている夢、

あるのは許し、受容、愛そのものだけ。

それだけが唯一の実体であって、それがあなたそのもの♪

☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ
2018年6月16日(土)14時~16時半
場所:あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
参加費:4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6BKYH