目覚め、悟り、非二元、求めるものではないと知っていても求めてしまう・・・・。
なぜなら、自我は対象物しか知らないから。
考えていること
見えるもの
聞こえるもの
感じている感情や感覚
味わっているもの
匂っているもの
ポジティブな思い、ポジティブな感情、綺麗なもの、心地よい話、おいしいもの、快適な匂い、愛されている感覚・・・・。
人生が思い通りに行くこと、嫌なことが決して起きないこと、周りの人が自分によく振舞ってくれること、社会が安全であること・・・・・。
自我が求めているものは、すべて見て、感じて、考えて・・・、つかめるものばかり。
つかんで得て、そして幸せになる・・・という自我の夢(想)
でもそんな夢(想)がなぜかなかなか実現しない、どんなに知っても、どんなに自分を見つめても、どんなに引き寄せを使っても、そしてどんなに自分を癒しても、何かあるとドン!暗闇に落ち込んでしまう。
特になにもないときだって、どこか物足りなさを感じたりする・・。
やっぱり、自分はまだ到達していない。
ノンデュアリティのメッセンジャーたちのような“状態”になりたい。あの人たちが見えている“もの”が見たい。(それを得るのだ、そうなるのだ・・・・)
求める気持ちは自然に沸いてくるから、それは間違いでもなければ、悪いことでもない。
でも、もしその求める方向を状態や変化、突然のシフトではなく、「ここ」に向けてみたらどうだろう?
いつも「ここ」にある常に見過ごしているもの。
餌を探している魚は水に気づいているだろうか?
獲物を狙って空を飛んでいる鳥は、空間に気づいているだろうか?
一瞥体験をする必要もなければ、突然個人の感覚がなくなる必要もない。(もちろん、あっても良いけど)
まさしくここに常にある唯一つかめないもの。
これらのすべてに気づいている純粋意識。
いつもあるのに、なぜつかめないのだろう? なぜ見過ごし続けるのだろう?
なぜなら、それがあなただから。探している目がその探しているものだから。
目覚めとは、自分が何なのかをはっきり認識すること。
この純粋意識が自分の本質であると疑いようもなく知ること。
探そう、つかもうとするのではなく、あらゆることが常に起きている、現象がある、認識がある・・・という自明の「ある」にただ留まる。意識をどこにも向けず。
そこがすでにホームであって、私たちは一度もホームを離れたことがない。
「ある」の外に出ることは不可能。
空の状態や自己が消えた感覚を求める必要もまったくなく、
立ち止まってこれ以上できないぐらいシンプルに「ただあって」みる。
まずはそこから始めてみよう。
そのうち自分だと思っていた自分は、すべてつかめるものだと認識されるかもしれない。
呼吸の一つ一つが現われては消え、時計の刻む音も現われては消えていく。それらは、同じ気づきの意識の中に現われては消えるつかめるもの。
体の感覚も様々な思いも家の外の音も誰かの声もすべてつかめるもの。あなたはそのどれでもなく、唯一つかめない気づいている意識。
あなたは、呼吸の動きでもなく、思いでもなく、音でも声でもない。つかめるものはすべてあなたではない。常にあって、変化しない気づいている意識が真のあなた。
でも、思考を横において、じっと気づいている意識に寄り添ったとき、時計の音と呼吸の動きの間に距離はありますか?
気づいている意識とそれらのつかめるものの間に距離はありますか?
気づいている意識と気づいているものを分けることはできますか?
これが非二元、ノンデュアリティということ。
気づいている意識と気づいているものは分けられない。それらは二つではない。
だから、
あなたは、呼吸の動きでもあり、思いでもあり、外から聞こえる音、誰かの声でもある。
あなたはすべてであり、すべてではない。
そう、ここがすでにいつも非二元の世界。あなたのホーム。
どこに行く必要もなく。
※※※※ お知らせ ※※※※
3月26日(土)14時~17時
東京「癒しとノンデュアリティのカフェ」開催!
場所:CTW表参道
費用:5000円
満席となりました。ありがとうございます。
カフェっぽく少人数でやろうかなと思いつきました(笑)。
レストランと家具屋さんのお二階でのお話会。
気軽にご参加くださいませ♪