月別アーカイブ: 2016年2月

決して見つからない探しもの

目覚め、悟り、非二元、求めるものではないと知っていても求めてしまう・・・・。

なぜなら、自我は対象物しか知らないから。

考えていること
見えるもの
聞こえるもの
感じている感情や感覚
味わっているもの
匂っているもの

ポジティブな思い、ポジティブな感情、綺麗なもの、心地よい話、おいしいもの、快適な匂い、愛されている感覚・・・・。

人生が思い通りに行くこと、嫌なことが決して起きないこと、周りの人が自分によく振舞ってくれること、社会が安全であること・・・・・。

自我が求めているものは、すべて見て、感じて、考えて・・・、つかめるものばかり。

つかんで得て、そして幸せになる・・・という自我の夢(想)

でもそんな夢(想)がなぜかなかなか実現しない、どんなに知っても、どんなに自分を見つめても、どんなに引き寄せを使っても、そしてどんなに自分を癒しても、何かあるとドン!暗闇に落ち込んでしまう。

特になにもないときだって、どこか物足りなさを感じたりする・・。

やっぱり、自分はまだ到達していない。

ノンデュアリティのメッセンジャーたちのような“状態”になりたい。あの人たちが見えている“もの”が見たい。(それを得るのだ、そうなるのだ・・・・)

求める気持ちは自然に沸いてくるから、それは間違いでもなければ、悪いことでもない。

でも、もしその求める方向を状態や変化、突然のシフトではなく、「ここ」に向けてみたらどうだろう?

いつも「ここ」にある常に見過ごしているもの。

餌を探している魚は水に気づいているだろうか?

獲物を狙って空を飛んでいる鳥は、空間に気づいているだろうか?

一瞥体験をする必要もなければ、突然個人の感覚がなくなる必要もない。(もちろん、あっても良いけど)

まさしくここに常にある唯一つかめないもの。

これらのすべてに気づいている純粋意識。

いつもあるのに、なぜつかめないのだろう? なぜ見過ごし続けるのだろう?

なぜなら、それがあなただから。探している目がその探しているものだから。

目覚めとは、自分が何なのかをはっきり認識すること。

この純粋意識が自分の本質であると疑いようもなく知ること。

探そう、つかもうとするのではなく、あらゆることが常に起きている、現象がある、認識がある・・・という自明の「ある」にただ留まる。意識をどこにも向けず。

そこがすでにホームであって、私たちは一度もホームを離れたことがない。
「ある」の外に出ることは不可能。

空の状態や自己が消えた感覚を求める必要もまったくなく、
立ち止まってこれ以上できないぐらいシンプルに「ただあって」みる。

まずはそこから始めてみよう。

そのうち自分だと思っていた自分は、すべてつかめるものだと認識されるかもしれない。

呼吸の一つ一つが現われては消え、時計の刻む音も現われては消えていく。それらは、同じ気づきの意識の中に現われては消えるつかめるもの。

体の感覚も様々な思いも家の外の音も誰かの声もすべてつかめるもの。あなたはそのどれでもなく、唯一つかめない気づいている意識。

あなたは、呼吸の動きでもなく、思いでもなく、音でも声でもない。つかめるものはすべてあなたではない。常にあって、変化しない気づいている意識が真のあなた。

でも、思考を横において、じっと気づいている意識に寄り添ったとき、時計の音と呼吸の動きの間に距離はありますか?

気づいている意識とそれらのつかめるものの間に距離はありますか?

気づいている意識と気づいているものを分けることはできますか?

これが非二元、ノンデュアリティということ。

気づいている意識と気づいているものは分けられない。それらは二つではない。

だから、

あなたは、呼吸の動きでもあり、思いでもあり、外から聞こえる音、誰かの声でもある。

あなたはすべてであり、すべてではない。

そう、ここがすでにいつも非二元の世界。あなたのホーム。

どこに行く必要もなく。

※※※※ お知らせ ※※※※

3月26日(土)14時~17時

東京「癒しとノンデュアリティのカフェ」開催!
場所:CTW表参道
費用:5000円
満席となりました。ありがとうございます。

カフェっぽく少人数でやろうかなと思いつきました(笑)。
レストランと家具屋さんのお二階でのお話会。
気軽にご参加くださいませ♪

“なにものでもない”視点

私のもう一つのブログ「魂のケア」のほうに先日、“自分ワールドがあるだけ”という記事を書きました。(読んでいない方、読んでみてくださいね♪)

今回は、ちょっと関係することを書いてみようかな~と思います。

自我の視点に立てば、自分の思いや感情や分かるけど、電車で隣に座っている人が何を考えているかなど分からない。だから、私と隣の人は分離している。

というのはごく当たり前の結論ですよね。というか、そんなこと考えることもないでしょう。

自分のワールドしか知らない自我の視点というのは、どうしても視野が狭く、孤独なものになりがちです。

また、いつも思考のフィルターを通しているので、ものごとをありのままに見ることを知りません。

“私はそれなりにいけている”、“私は才能がない”、“世界は私の遊び場だ”、“世界は怖いところだ”・・・などのビリーフやセルフイメージはもちろんのこと、

これは椅子だ
私は人間だ
私は男だ

というのも、刷り込まれた知識です。

今、部屋の中を見渡して、瞬時にレッテルを貼っていることに気づくでしょう。カーテン、コンピューター、椅子、机、本棚などなど。概念なしにモノを見ていることは、あったとしてもごく稀なはずです。

あるとき、“みかん”という思いがなくなれば、みかんは存在しないと言い張る人に出会いましたが、それぐらい私たちは“まず概念ありき”が当たり前なんですね。

また、自我の意識は、いつも対象物ばかりに行っています。考えている内容、感じていること、見ているもの、聞いているもの、すべて捉えることができるものばかり。

そして繰り返しますが、それらのすべてにレッテルや意味や解釈がつく。

これが自我の視点ですね。

でも、自我が唯一すっかり忘れているもの。

あまりに見過ごしているから、どんなに指摘されても探し回ってしまうもの。

呼吸より近くにいつもあって一度も消えたことがないもの。

それは、

そもそもそれらのすべてにいつも「気づいている意識」(表現はなんでも)

唯一変化せず、常にあるもの。

色も何もなくまったくどうやってもつかめないもの。(ものじゃないけど)

でも、そちらのほうへ視点がシフトしていったとき、狭い自分ワールドの中には誰もいなくて、時空のない無限の愛の海原だっと知る。

深遠で、底なしに無限。分離なんてまったくもって不可能。

アジャシャンティは、“悟りとは自我の歪曲した視点を通して世界を見ないこと”とも言っています。

思考を通してみる限り、ありのままの現実(分離のない生命の流れ)は、常に歪曲(投影)されてしまいます。

単にいくつかの思い込み、ビリーフ、観念から抜け出すのではなく、私は人間だ、日本人だといった概念もすっかりない、「私はなにものでもない」という視点に立つこと。

そのときはじめて「ありのまま」が顔を出してくるでしょう。

ただこれを頭のレベルの理解でやってしまうと、「私はなにものでもない」という新しいビリーフを作るだけです。単なる新しいフィルター。

でも、「私はなにものでもない」ことが本当に腑に落ちれば、同時に「私はすべてである」という矛盾がすんなりと入ってきます。

空であって、すべてである。

個の私の狭いワールドは、同時に時空のない無限性でもある。

有限と無限がどうして同時にあり得るの?

変化するものと変化しないものが一つって?

常に真実である私(I AM)と真実を深めていく仮の私(self)を同時に生きること。

みごとに矛盾した生命のダンス♪

そして、このプロセスは永遠に終わらない・・・・。