かつて“見る”とは、モノや人、風景を見ることでした。
モノや人、風景の間には空間があって、それぞれは分離して存在していました。
すべては疑いようもなく実体があり、分離はリアル以外のなにものでもありませんでした。
でも今、“見る”と“ある(being)”は同じものになり、主体と客体の関係はどんどん薄くなって、空間はあるけどなくなりました。(私が見ているのではなく、見るとあるがあるだけ)
実体性が薄くなるにつれて、面白いことに目に映るものは以前より生々しく、違うリアルさを放つようになりました。
「私はある(I AM that I AM)」はあらゆるものであって、空間は一切存在せず、だから時間もないまま、いまここに何一つ分離を見ることはできません。
こう書くと、あなたはいつもそんな風にモノが見える状態にいるのか?と聞く人もいるかもしれません。
でも、状態ではないんです。そうすると今度は、じゃぁ、頭で理解しているのか?と聞かれるかもしれません。でも、思考は捉えることができなのです。
モノを見るのではなく、「見る」という経験に寄り添います。音に囚われるのではなく、「聞く」という経験に寄り添います。出来事に囚われるのではなく、それにただ「気づいている」意識に寄り添います。
そして、見る、聞く、考える、感じる、あらゆる経験の主体がないことを知り、見ると見られるものは決して分けられないと知ります。
行為者も選択者も介在せず、私もあなたも空っぽで、経験とそれに気づいている意識だけがあります。
でも、この二つは分けられないから、空っぽになればなるほど、あなたはすべてになっていき、そして空っぽだと知れば知るほど、分離の幻想も落ちていくでしょう。そして、そこにあるのは愛。
人の嘆きも絶望も、愛の変形であって、どんな悲しみも喪失感も後悔や罪悪感も愛と分けることはできず、すでに癒されています。
それを知りながら、目の前で起きている出来事に寄り添い、嘆きや絶望を癒していく作業を地道に続けていきます。派手さも、約束もなく、自我がしびれを切らしてしまうほど地道に。
でも、本質を見過ごさなくなったあなたは、それを軽やかに受け入れ、流れに身を任せられることでしょう♪