月別アーカイブ: 2016年4月

モノしか見ていなかったから・・・・

かつて“見る”とは、モノや人、風景を見ることでした。

モノや人、風景の間には空間があって、それぞれは分離して存在していました。

すべては疑いようもなく実体があり、分離はリアル以外のなにものでもありませんでした。

でも今、“見る”と“ある(being)”は同じものになり、主体と客体の関係はどんどん薄くなって、空間はあるけどなくなりました。(私が見ているのではなく、見るとあるがあるだけ)

実体性が薄くなるにつれて、面白いことに目に映るものは以前より生々しく、違うリアルさを放つようになりました。

「私はある(I AM that I AM)」はあらゆるものであって、空間は一切存在せず、だから時間もないまま、いまここに何一つ分離を見ることはできません。

こう書くと、あなたはいつもそんな風にモノが見える状態にいるのか?と聞く人もいるかもしれません。

でも、状態ではないんです。そうすると今度は、じゃぁ、頭で理解しているのか?と聞かれるかもしれません。でも、思考は捉えることができなのです。

モノを見るのではなく、「見る」という経験に寄り添います。音に囚われるのではなく、「聞く」という経験に寄り添います。出来事に囚われるのではなく、それにただ「気づいている」意識に寄り添います。

そして、見る、聞く、考える、感じる、あらゆる経験の主体がないことを知り、見ると見られるものは決して分けられないと知ります。

行為者も選択者も介在せず、私もあなたも空っぽで、経験とそれに気づいている意識だけがあります。

でも、この二つは分けられないから、空っぽになればなるほど、あなたはすべてになっていき、そして空っぽだと知れば知るほど、分離の幻想も落ちていくでしょう。そして、そこにあるのは愛。

人の嘆きも絶望も、愛の変形であって、どんな悲しみも喪失感も後悔や罪悪感も愛と分けることはできず、すでに癒されています。

それを知りながら、目の前で起きている出来事に寄り添い、嘆きや絶望を癒していく作業を地道に続けていきます。派手さも、約束もなく、自我がしびれを切らしてしまうほど地道に。

でも、本質を見過ごさなくなったあなたは、それを軽やかに受け入れ、流れに身を任せられることでしょう♪

またの名は「わたし」、またの名は「いまここ」

「わたしは何か?(Who am I?)」

ラマナ・マハラシに始まったのこの問い。

思考を通さずに、ダイレクトにこの問いを見ていく。

で、この問いは、同時に「これでもなく、それでもない」というアドヴァイタの伝統的な問いNeti Neti(neither this nor that)も含まれているだろう。

私は体ではなく、思いでも感情でもなく、名前でもなく、記憶でもなく、あらゆるストーリーでもない。

○○年○月○日に生まれたのは、私? でも、そこにあるものを見ていけば、体、思い、感情、名前、記憶、ストーリー、日付け、etcがあるだけ。

それらのどれも私ではないのだから、○○年○月○日に生まれた私もストーリーでしかなく、実在としての「わたし」ではない。

じゃぁ、最初の問いに戻って「私は何か?」

決して否定できない存在である私は?

唯一変化せず、唯一観察できないもの、唯一常にあるもの、唯一疑いようがなくあるものは?

そう、「気づいている意識(=純粋意識)」

こう書くと、それは普段の意識と違うもの、何かをしてそういう状態になるもの、今の自分には見えていないもの、たまたまシフトした人だけ分かるもの、と思う人もいるかもしれない。

でも、「純粋意識(=気づいている意識)」のまたの名は「私」、「私という感覚」。

いつもいつもある「私という感覚(I am-ness)」。(感覚ではないけど。言葉の限界をお許しください)

多くの人がこの私という感覚が、体や思い、感情の方に属していると錯覚し、見過ごし続けてしまう。

「私」という言葉の後にくるレッテル、例えば“私は人間です”など、すべてをレッテルと認識してみよう。

また、「私」という言葉が指すもの、例えば、体、思い、感情をすべて椅子やテーブルなどと同列にしてみよう。

レッテルは思考に過ぎず、体や思い、感情は観察できて、変化するもの。

わたしは・・・・の後に来る言葉をすべて辞めてみる。

わたしは・・・・・・・、沈黙・・・・・・・・・・。 あらゆることがただ起きている。

最初は、普段の自分の感覚のほうが圧倒的に強いかもしれない。なぜなら、体や思い、感情の複雑で重量のあるエネルギー、そして「個の私がいる」という人類の錯覚が、この「純粋な意識」を完全に覆ってしまっているから。

まるで雲が青空を覆っているように。

だから、自我は“この感覚のはずがない。こんなのいつもの重たくて惨めな自分の感覚だ”とまた見過ごしてしまう。

でも、それがあなたが探し求めているもの。あなたそのもの。

「あなたはそれである(You are that)」とティーチャーが指し示すとき、それは、あなたが知らない何かや概念、いつか感じられる何かを指しているのではなく、一番よく知っているまさにこの「ただある=私という感覚」。

そこに留まってみる。

徹底的に静かな「わたし」。またの名は「いまここ」

上も下も右も左もなく、限りなく無限に空っぽ。

そして、空っぽになればなるほど「わたし」はすべてになって、
分離を見ないスピリチュアルなハートが開いていく!(*^_^*)

 

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