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どんなワークも探求を強めるだけ?

さて、「どんなワークも探求を強めてるだけで、(真実から)遠ざかる」と聞いて、混乱していますというコメントを頂きました。

どんな表現の仕方にもプラスとマイナスな点があると思いますが、真実だけはっきり言い切るタイプのメッセージは分かりやすく、自我に良い刺激を与える一方で、「どんなワークもダメ。終わり。」みたいな印象も与えると思います。これはおそらく、個のエネルギーを強めるからということを強調したいのだと思います。

トニー・パーソンズなどは、「あなたにできることなど何もない」ともよく言い、真実ではあるけれども、欧米では非二元的ニヒリズムと指摘されたりもしています。

個人的には、このメッセージによって「自分がやるのだ」モードからだいぶ抜け出せたので良かったなと思っています。でも、それでチャンチャン!となってしまうとやはり先に進めません。ということで、ちょっとアジャシャンティの言葉を引用させてください。彼は瞑想について語っていますが、それをワークと置き換えて読んでも同じことだと思います。

『真の瞑想とは、ゴールや方向性がないものである。それは、まっさらで言葉がなく、降伏、純粋な静けさ、そして祈りである。ある特定の心の状態を目指したものは、どんなメソッドでも限界があり、持続性がなく、条件付けられたものである。真の瞑想とは、一番最初にある気づいている意識(awareness)にとどまっているものである。』

これは、ある意味どんなワークも探求を強めるということを、違う角度で話をしているんです。何かを目指したとたん、どうしても個のエネルギーが強まるからです。

ただ、アジャシャンティなどは、長年探求し、あれこれやっては失敗し、行き詰まり、すべて失敗したおかげで、真実が見えたとも言っています。

なので、探求の罠をよく知り尽くした上で、同じような罠にはまっている人たちへ愛情にあふれたアドバイスをしてくれるんですね。

ついでにニサルガダッタ・マハラジのケースも紹介させてください。

『私の先生は、“私はある(I am)”という感覚を掴み続けなさい、根気よく、その感覚から一瞬たりともはなれないようにと言った。私は自分ができる最善の努力をして、そのアドバイスに従い、比較的短い時間で先生の教えが持つ真実を自分の中に見出したのだ。』

これをワークと定義するかどうかは分かりませんが、ニサルガダッタもかなり真摯な人生をかけた取り組みをしていたんですね。

ちなみに“私はある(I am)”という感覚とアジャシャンティの言う、「まっさらで言葉がなく、降伏、純粋な静けさ、そして祈り」、「一番最初にある気づいている意識(awareness)」はすべて同じことを指しています。なので、二人が言っていることは、まったく同じです。

話は少し逸れますが、非二元のメッセージの難しさは、ご存知のように言葉があてはまらないものが多いですね。そのためにティーチャーによって言葉や表現がまちまちすぎて、同じ事を言っていても、受け手が違うものとして受け取りがちなことでしょう。

例えば、「私はいない」と「私と鳥、鳥のさえずりは一つである」もまったく同じことを言っています。でも、後者の表現だと「私はいない」と捉えない人もいるかもしれません。

話を戻して、個人的にはなにもしないでいると、思いや体に同化したままの何もしていない自我がただいるだけ、という状態になりかねないと思っています。

なので、真実を知りたいのなら、やはり何かしたほうが良いだろうと思うのです。ということで、陥りやすいワークの罠を少しあげてみましょう。

・さぁ、ワークをするぞ!と、意気込んで今と違う状態になろうとする。

・うまくやろうとする(←この思いがあることは意外に気がつかないものです)

・ワークや瞑想をしている時の時間、そのほかの日常生活の時間みたいに分けた考え方をしている。

・“いつか悟った自分”を想定してワークする

・思考をなくそうとするなど、状態をコントロールしたり、ある特定の状態を作ったりしようとする。(思考がない状態など)

・何かが起きる(突然のシフトなど)ことを期待している

他にもあるかもしれませんが、今日思いつくのはこんなところです。

アジャシャンティやニサルガダッタが言う、「気づいている意識、私はあるという感覚に留まる」ことは、四六時中やれることですね。歩いているとき、電車に乗っているとき、料理をしているとき・・・。

そして、自我の緊張した状態ではなく、こっちのほうが私たちにとっては本来の自然な状態です。なので、さぁ、留まるぞ!みたいな力が入らない、最もリラックスした態度でやるのが良いでしょう。(リラックスしようと意気込まないこと)

最も何もしない瞑想?ですが、最もパワフルなものですね。

悟りや非二元についてのごちゃごちゃした考えを落とし、徹底的に真摯に正直に、そしてリラックスしてただそこに留まる。

そのうちに純粋な静けさのエネルギーが、あなたのハートを開き、固まった意思をそぎ落としてくれるかもしれません♪

※「気づいている意識、私はあるという感覚に留まる」以外にもやれることはいろいろあると思います。

「ある」と「ない」を生きる♪

自我は、自分がいて、世界があって、人生があって、自分が何かして・・・という「存在の世界」だけしか知りません。

なので、最近流行り(?)の「私はいない」というメッセージは、多分とても分かりにくいはずです。自我にとっては、とにかく「まず自分がいる」というのがすべての前提ですから。

私自身も奇跡のコースのメッセージである「この世には誰もいない」という言葉を聞いたとき、なぜかそれが真実だ!とは直感しましたが、意味はさっぱり分かりませんでした。

でも、それだけにこのメッセージは、ある意味とても大切です。「私はいない」「物事は起きていない」「世界は幻想であって、実在していない」という「ない」の側面を知ることで、私たちは一歩大きく真実へ躍進できると思うからです。

さて、悟りや非二元に興味がある人は、一見頭がおかしいのでは?と世間一般的には思われそうなこれらのメッセージにも、オープンに耳を澄ましてくれます。

とはいえ、自我にとってすべてはリアルで、明らかに様々なことが起きていて、とても“起きていない”とは感じられないはずです。(正確には、“あらゆることが起きていて、そして何も起きていない”です)

大切なのは、メッセージを頭で理解して“本当はそうなんだな・・・”と考え込むのではなく、自分がほんとうにそう見えているかどうか、徹底的に正直になることでしょう。

そうやって自分に正直になって始めて、ほんとうの質問が生まれてくるからです。

今まで頭から出てくる質問はたくさん頂きましたが、体験から出てくる質問はとても少ないんです。

自分がいるように感じるなら、それは一体何?感覚?それとも思考?

物事が起きているようにしか感じないのなら、“非二元的には、戦争も幻想なんですよね?”と聞く前に、自分は何を見過ごしているの?何がもっと見えてきたら良いの?

などと真剣に問いかけていくことです。

さて、これらの問いかけのすべての鍵、そしてすべての答えは、「いまここ」にあります。たった今、あらゆることが起きていて、そして何も起きていないんです。今まさにここに。

自我は、「ある」しか知らないというお話をしましたね。思いや感情、そして体の動きは充分に知っているし、ある出来事が始まって、終わっていく、人がA地点からB地点へ移動していく、といった現象もよく知っています。

今ここで、あらゆることが起きているということは、自我は充分に理解しているでしょう。

では、今ここで「わたしはいない」「何も起きていない」の側面に目を向けるには?

それが、「気づきの意識」(純粋意識、真我、それ、空、etc)にしっかりより沿うことなんです。

あらゆることが変化していくなかで、唯一常にあって、唯一観察することができなくて、唯一変化しないものは何?

それは、すべてに気づいている意識ですね。それがなければ、なにがあるとかないとか、変化したとか、一切何も分かりません。

気づきの意識は、またルパート・スパイラの例えを借りると、映画のスクリーンのようなものです。

スクリーンは真っ白だから、あらゆる色や動きを映し出せます。そして、スクリーンの中では時が経過し、キャラクターがA地点からB地点へ移動しますが、スクリーンも一緒に移動することはありませんね。

気づきの意識も同じで、気づいているだけなんです。

なので、気づきの意識にしっかり寄り添い、そっちのほうが自分であるということが、しっかり理解できれば、思い、感情、感覚、体は捉えることができるもの、変化するもの、つまり、起きている出来事のほうであって主体ではなく、そこに持ち主がいないことが自ずと見えてくるはずです。

そしてまた、気づきに意識は常にあって変化しないことが感じられたら、そこに時間と空間がないことも見えてくるでしょう。

ものごとが起きるというのは、時間と空間があるところだけですね。出来事とは、始まりがあり、終わりがあり、空間が必要です。

でも繰り返しますが、変化することなく、常にある気づきの意識に深く寄り添い、それが「私」であるとしっかり分かれば、時間と空間も幻想、ストーリーであることが見えてきます。

そうすれば、時空のないところで起きたかのように見えるあらゆる出来事も、実体のないものだと感じ取られてくるでしょう。

そして、「何も起きていない」ことが深く感じられたとき、そこには愛と受容しかないことがよく分かるはずです。

愛と受容の中で、あたかもあらゆることが起きているかのように神の遊戯が行われているんですね。

これをまずしっかり知ることが大切だと思うのです。そしてその上で「ある」に戻ったとき、自分がいて、世界があって、そこではあらゆることが起きています。

でも、もうその「私」は、個の私ではなく、気づきの意識の「私」なんです。

気づきの意識の「私」の視点に立って、個の私という現象を生きること。それが英語でいうembodiment(真実を体現する)という意味なのでしょう。

あらゆる出来事を深く感じながら、同時にすべてが救われていることを知っている。世界にある嘆きと真実の愛を両方同時に抱きしめながら、人間の深さと真実の深さをかみしめていく。

これがある意味、本当の人生なのかもしれませんね♪

どうしたら目覚めた状態でいられるの?

私もそんなふうに思っていたので、ある意味とてもよく分かる質問があります。

それは、 “どうしたら非二元の感覚(状態、etc)になれるんですか?” とか、 “その状態にずっといるんですか?”というものです。

そのたびに、“状態ではありませんよ~。”とお返事しています。

どんな例えも完璧ではなく、途中から使えなくなるのですが、とりあえずBernardo Kastrupというオランダの科学者の例えを使ってみたいと思います。彼は、人は脳によって世界を認識しているという主流の科学に対して、脳ではなく一つの意識ではないかということを見事な理論で展開している人です。

で、一つの意識とは、量子学がいう量子フィールドでもあり、彼はそれを水(無限の大海のようなものをイメージしてみてください)に例え、それに対して個の意識、つまり自我を渦巻きに例えています。

渦巻きは動き続けているから形になり、あたかも個として現われているように見えますが、実体は水ですよね。

これを非二元、「空即是色」に例えると、「空(くう)」が水で「色」が渦巻きに置き換えられと思います。

で、渦巻きである自我は、自分は水でできているということを忘れている、とイメージしてみてください。

ついでに水もまったく目に入らず、でも、他の渦巻きとか流れてくる木屑とか、注がれる太陽の光など、水以外のモノは目に入るとイメージしてみてください。

水が目に入らない理由は、あまりに当たり前でいつもあるからです。

でも、渦巻きの本質は水であって、水そのもので、水以外になれません。

まったく同じように、私たちの本質は空(=気づきの意識)であって、空そのもので、空以外になれないんです。

最初の質問をこれに置き換えると、ある渦巻きが、“どうやったら水の状態になれるのでしょうか?”とか、“水の状態でいつもいるのですか?”と、目覚めた(笑)渦巻きに尋ねているような感じなんです。

そうではなく、真の私は、現われては消える渦巻きのほうではなく、常にある水のほうだったとしっかり知ることだけなんです。(体験的に理解する)

でも、このへんからやっぱり例えが崩壊してきました、気づきの意識は水と違い物質感がまったくなく、また動きがあると同時にまったく動いていないのですが、水はまったく動いていない感があまり例えにならないですね。

とりあえず、ポイントは“状態ではない”ということなんです。ここがしっかり理解されないと、思考がなくなった状態とか、自分という感覚がない状態とか、そういったものを探してしまうでしょう。

例えは崩壊するといいつつ、もう少し続けてしまうと、もし、渦巻きがモノを見ることをやめ、動くことをやめたら、自分は周囲の水の中に消えていきます。

瞑想で私が一番良いなと思うのは、最初は自分の呼吸の音、体の感覚、浮かんでくる思い、部屋の中の音、外の音などに意識を向け、何もしないでいる。そのあとに、それらに意識を向けるのをやめて、気づいている意識に寄り添い、ただ何もしないでいる、というものです。

やっている人も多いかなと思いますが、これはかなりパワフルですよね。ただ、これはうまく行けば行くほど、たぶん抑圧していた思いや感情などがわんさか出てくる可能性も大です。

今まで何かをしたり、外に注意を向けることで蓋をしていたものが、パカッと開いてしまうからです。

そのときはどうしたら良いの?というのは、長くなりますのでいつかの機会に。

さて、見過ごし続けてきた(本当は見過ごせないけど)常にある「気づきの意識(純粋意識、真我、空、それ、I am that I am、etc)」が真の私であると知ることは、ある意味スタート地点に過ぎないかもしれません。

というのも、それが見えてきても、自我のエネルギーが強いので、どうしても「個の自分がいる感」、「自分が何かをしている感」があるからです。

なので、その次は「一体自我とは何なのだろう?」、「自分がいる感の正体はなに?」と自分の経験を見つめていくことかなと思います。

いずれにしても、「気づきの意識」に寄り添う時間というのは、自我にとっては大きな休みともなるでしょう。

それは、つかの間の“現実”という名の「夢」から覚める時間ですね♪