月別アーカイブ: 2016年7月

散りばめられたノンデュアリティ

真実や本質を現す言葉は無数にありますね。英語では、Awareness, Pure consciousness, Presence, Being, Reality, I AM, All that is, True nature, などなど。

言葉なので、どれも妥協がついて回ります。

それでも古今東西、いろいろな形で私たちの本質について表現されてきました。

例えば、ペルシャ詩人のルーミーは、何世紀にも渡って多くの人の心を掴む「詩」という形で。また、イギリスの画家ウィリアム・ブレイクが残した作品や言葉の中に。または、多くの童話や伝承の中に。

10年以上前にアンソニー・デ・メーロの「Awareness」という本を読んだとき、半端なく心が晴れたものです。しばらく私のバイブルでしたが、そのときはそれが、ノンデュアリティの視点から書かれたものだとはまったく気づかず、「楽に生きるための本」だと思い込んでいました。

今読み返すと、どうして気がつかなかったのか不思議なぐらいです。たくさん付箋もつけていたのに・・・。

ノンデュアリティという表題の本や話だけが真実を語っていると思ってしまうと、私のようにあちこちに散りばめられている真実を見逃してしまうかもしれません。

また、ノンデュアリティのメッセンジャーも様々なタイプがいますね。

ある人は究極のレベルのみ発信し、
ある人は月が真実だとしたら、その月をさす指を語り、
ある人は自我の機能を多く語り、
ある人は比喩や例え話の中に織り込んでいく・・・

ラマナ・マハルシの「私は誰?」から始まったダイレクトパスも、
ニサルガダッタが師に言われた「あるに留まる」ことも、
すべて真実をさす指。

真実をさす指を真実そのものだと勘違いしない限り、
指をさすほうに顔を向ければ、それは私たちを夢から
本質(現実)へと導いてくれるかもしれません。

または、あるメッセンジャーの言葉で、あなたの心が深い闇から
ふと、真実へ目覚め始めることもあるでしょう。

これらの多様性のすべては現象が生み出す不思議なダンス。

一つのこれこそがノンデュアリティなのだというドグマに陥らずに、
それぞれがそれぞれのダンスを舞いながら、目覚めていく。

そして、自分のダンスを踊るためには、隠れた欲望や思考に惑わされずに
自分の本心に留まっている「正直」さでしょう。

私は一体何を求めているのか?という本心に。

それさえ分かっていれば、あとは自分のダンスを踊るだけ♪

私の人生はこの二つの間を動く

テーブルがあって、椅子があって、食べ物があって、
体があって、食べ物の味がして、会話があって、
自分の意見があって、自分の心配事があって、
好き嫌いがあって、手が動いて、目が食べ物や
会話している相手に向いて・・・・。

でも、そこに「わたし」はいない。

あらゆることがあって、あらゆることが起きているけど、

そこに「わたし」はいない。

“ブロッコリーとアスパラガス、どっちが良い?”と尋ねられる。

“アスパラガス♪”と答える。

でも、そこにわたしはいない。答えがちゃんと生まれて、会話が進んでいく。

でもね、ほんとうの醍醐味はこれから。

それは、「いない」ではなくて、あなたは何か?という問い。

わたしはいなくても、「わたし」という感覚は常にあるだろう。

そして、あらゆることが「ある」、または深く眠っているときのようになにもないが「ある」。

「ある」ことから逃れることは決してできない、それは否定しようもない事実。

あなたは、手でも口でも思いでも感覚でもなく、

いっつもあるこの「わたしはある(I AM)」。(う~む、言葉ってまどろっこしい・・・)

常にあって、上下も左右もなく、無限の静寂(←静寂という性質、状態ではなく)

そっちが本当のあなた、椅子に座っているほうではなくて。あらゆる苦しみはこの勘違いから生まれる。

でも、私はまったくの空なる静寂であって、そして同時にあらゆるすべて。

そして、個人としてのあなたは、自分が自分の人生を創っていくという大きな大きな仕事から解放される。

それでも情熱は勝手に沸き、決定はなされ、個としてのユニークなあなたの人生は続いていく。良いことも悪いことも様々起き続けるだろう。

でも、今、あなたは絶対なる信頼を知っている。

なぜなら、

あらゆる出来事は、本質的に実体がなく、常に移り変わり、あなたは影響されないことを知っているから。

そして、

同時に、あらゆるすべてが自分であって、だからそこに分離はなく、心を開いて良いことを知っているから。

“Wisdom is knowing I am nothing,
Love is knowing I am everything,
and between the two my life moves.”

智慧は、私は無であると知っている。
愛は、私はすべてであると知っている。
私の人生はこの二つの間を動く。

byニサルガダッタ・マハラジ

コンピューターのスクリーンを見ているのは誰?

椅子に座って、ラップトップのキーボードを打っている。思いが沸いて、即座に指が動き、文章が綴られいく。目がスクリーンの字を追っていく。ふと思考が止まり、目がスクリーンから離れる。好きな音楽が流れ、外からは飛行機の音もわずかに聞こえてくる。紅茶でも飲もうかなと思い、一旦キーボードを叩く動きを止める。椅子から立ち上がって、そそくさとキッチンの向かう・・・。

掴むことができるものすべてがあなたでないとしよう。体は体に気づけないし、思いは思いを振り返ることはできない。体、思い、感情、感覚に気づけるということは、それらに気づける第二の存在があるはず。体でも、思いでも、感情でも、感覚でもない存在が。

あなたが今ブログの記事を読んでいるということは、見る経験をしているはず。目が自然にスクリーンを追っているだろう。同時に考えが起き、椅子に座っている感覚もあるはず。

あなたはマウスを握っている自分の手(体)を見ることができ、感じることができるから、体はあなたではない。ブログの記事を読んで沸いて来る思いを知ることができるから、あたなは思いでもない。

見るという経験があるから、コンピューターのスクリーンが見える。聞くという経験があるから、音楽や飛行機の音が分かる。考えるという経験があるから、文章が綴られていく。感じるという経験があるから、自分の手がキーボードに触れていることが分かる。

でも、あなたはそれらの経験があることに気づくことができるから、あなたはそれらの経験ではない。

では、これらに気づいている「自分」はどこにいるだろうか?

体も思いも感情もあなたでなければ、誰が見ていて、誰が聞いていて、誰が感じていて、誰が考えているのだろうか?

自我は、「自分だ」というだろう。脳が考えていて、眼が見ていて、耳が聞いているのだと。

だとしても、それらに気づいているのは誰?

目が何かを捉え、それについて考えが沸いて、次にまた目が何か別のものを捉え、違う思いが沸く・・・。それらの変化に気づいているのは誰?

思考が沸いて去っていき、注意を向ける先が変わったり、体のいろいろな感覚、起きてくる感情や衝動・・・、これらに気づいているのは?

これらのすべてに気づいている意識にベクトルを向けてみよう。

気づいている意識を掴むことができるだろうか? なにか性質はあるあろうか? 大きさや深さ、広さ、そういったものがあるだろうか?

それともそれは「ただあって、気づいているだけ」だろうか?

そこにただ留まってみる。

それでも、いつもの個の自分の感覚が強いかもしれない。

その個のような感覚と気づいている意識を分けることができないから、ほとんどの人が気づいているのは、個の私だと錯覚してしまう。

でも、その感覚をよく見てみよう。そこにほんとうに「わたし」はいるだろうか? それとも最後まで感覚があるだけ?

考えに行かずに、ただ経験に留まってみよう。

さて、気づいている意識と見る経験の間に距離はあるだろうか?

見る経験と見えているものの間に距離はある?(自分の体という“もの”とコンピュータという“もの”の間の距離ではなく)

多くの人は見えるもの、聞こえるもの、感じられるものにいつも心が奪われているため、見る経験、聞く経験といった経験そのものに意識を向けることに難しさを感じるかもしれない。

でも、見るということが起きていて、聞くということが起きている、感じるということが起きていて、これらの経験を否定することは決してできない。

気づいている意識 ― 経験 ― 経験されているもの。

これらの間に一切距離はなく、またそれらを分けることも決して出来ない。

これ以上にないぐらいに“直接”見れば良いだけ。すると・・・・、

主体―客体の幻想は滅び、すべてが一つの大きな流れ。

あなたはだから気づきの純粋意識でもあり、経験そのものでもあり、そして経験されているもの。

ダイレクトパスとは、メソッドでも理論でもなく、シンプルに“直接”今ここで起きていることを見つめていくもの。

真実の鍵はいつも手元に♪ (❁´▽`❁)*✲゚*