一見、やけっぱちなタイトルになってしまいました(笑)。
自我は動き回って、いろいろ考えたり、感じたりしているこの自分が“わたし”で、自分の目に見える世界が現実だとふか~く感じているから、悟りとか真実は、いまここに明らかになっている・・と、なかなか思えないでしょう。
だから、その自分がいつか空の状態になるのだとか、またはシフとして主体と客体がない世界が見えてくるのだとか、こことは別に時空がない次元があるとか、どうしても真実を今と違うどこかに想定しがちですね。
でも、ここが「空」であって、「主体と客体もなく」、そして時空がないんです。ここが!
それをまず押さえないと、自我はずっと「今と違う状態」、「違う場所」を求め続けてしまうでしょう。
こうすれば、真我とつながれる、こうすれば「私がいない」状態になる、死んだらそれが分かる、高い波動につながれば、時空のない高い次元に移行できる・・・、などなど。
いろいろありますが、たぶん、今ある多くの勘違いは、一瞥体験などをしないと分からない、“解放”が起きないと分からないというものかもしれません。
でもそれらは、それがあったほうが真実が見えやすいということだけなんです。一瞥体験なしでも、解放が起きなくても、直接見つめていくだけで、自己の不在も時空の幻想も見えてきますね。
なぜなら、もうすでにここにいつも真実は明らかに、否定しようもなくあるから。すでにあるものを知るのに、どうして違う場所や未来(死んだら・・・、解放が起きたら・・・)という存在しない時を設定する必要があるでしょうか?
般若心経の出だしに「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄」という一文がありますね。
ちなみに、現代語に直訳している英文を見たとき、めっちゃわかりやすい!と私は思いました。ので、英文もつけてしまおう。↓
Avalokitesvara Bodhisattva, while moving to the deep course of Perfect Understading, clearly saw that the five skandhas (the body, feelings, perceptions, mental formations, consciousness ) are all empty, and was saved from all suffering and distress.
「観自在菩薩が真実の完全なる理解に深く入っていったとき、五蘊(体、感情・感覚、認識、思考(意志)、意識)は、同等にすべて空っぽであるとはっきり見抜き、すべての苦悩から救われた。」
五蘊が空っぽだと見抜くためには、五蘊をただ深く見つめていく必要があるでしょう。また、これらの五蘊に同化していれば、当然それは見えてこないですね。
つまり、私たちは普段、考えや感情、体に完全に同化し、それらでものごとを認識しているから、真実はすでにいつも明らかになっているのに見過ごしてしまうんですね。
ちなみに、深く見ていく(瞑想する)とは、考えや感覚などを通さずに直に見る(ダイレクトパス)ということです。
私の先生(と勝手に呼んでいる)であるルパート・スパイラは、“考える行為(thinking)は何でできているか?”という質問を私に投げかけました。
考えが何でできているか?を考えて答えを出すのではなく、考えるという行為(考えている内容ではなく)をただ見つめるんです。
ルパートさんにうながされたまま、ただあるものを見ていくと、考えるという行為も考えも見事に空っぽであり、そして同時にそれは気づいている意識でもある!と、ある瞬間に全身で腑に落ちたのです。
もちろん、これだけで真実のすべてが分かったということでは全くありませんし、その後もいくつもの気づきを経ていきました。(経ています。現在進行形)
おそらく、真実が見え切ったと思ってしまったら、それは何か逆に限界、限定的なことに陥っているはずでしょう。
でも、少なくとも真実はいますでに明らかになっているということ、どこか違う場所、違う時を想定するのではないことが見えてくるはずです。
そして、この体でも、感情でも、感覚でも、認識行為、考え、意志などなどでもない、唯一捉えられないもの。常にあるもの。
それは、静けさより静かで、だから無言に平和で、徹底的な受容でもあり、すべての人に常に用意されている逃げ場、安らぎの場、そして真の私たちそのものですね♪
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2016年12月3日(土)13:30~16:30
2016年11月22日(火)18:30~21:00