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ストーリーに巻き込まれてしまう・・・

それなりに頻繁に“だいぶ気づいている意識に寄り添えるようになったのですが、何かあるとすぐにストーリーに巻き込まれてしまいます~”というコメントなどを頂きます。

とってもお気持ち分かります♪

ですがもし、ストーリーに巻き込まれること自体が嫌なのであれば、たぶん、癒しのほうが早いでしょう。一つには、ボタン(抑圧された思いや感情)を抱えているから、それが反応してしまうので、そこを癒せば、自我自体が落ち着きますよね。

それはそれで価値が大いにあると思うのですが、こちらは非二元のブログなのでその観点から~。

で、ストーリーに巻き込まれてしまう一番の理由は、“私は何か?”が十分に確立されていないことにあるかなと思います。

例えば、前回から少し引っ張ると、今このブログを読んでいることに気づいていますね?

その気づいているのは、あなたではなく、気づきの意識です。鵜呑みにしないで、よ~く観察してみてください。

実際、あなたが気づいているのではなく、あなたは気づかれている側です。気づきの意識は、あなたの思い、感情、体の変化にいつも気づいています。

あなたの思い
あなたの感情
あなたの体

あなたがあなただと思っているあなたのすべては、いつも気づかれています。

人類の勘違いは、気づいているのが個の自分だと錯覚していることですね。

だって、今一人で部屋でこの音楽を聞いているのは私だけで、私だけが気づいているのだから・・・。分離のうまいトリックです。

このトリックを見抜くのは、思考を通さずにダイレクトに観察していくことでしょう。
(前回のブログに少し流れを書きました)

よ~く観察して、気づいている意識に切れ目や空間はあるでしょうか・・・・?

さて、最終的に思い、感情、体はありますが、やっぱり所有者であるあなたはどこにもいません。

でも、どうしても私感覚がある。私はいる。私はある・・・・。その“私”は、気づきの意識。私はある(I AM THAT I AM)。

その後に、あゆか(名前)だ、日本人だ、男だ、女だ、会社員だ・・・とレッテルつけて、その私があたかも個の私かのような錯覚が始まるんです。

しかし、思い、感情、体は変化しても、それに気づいている“私”は常にあるはずです。

この気づいている私をしっかり確立していくんです。

気づいている意識は変化に気づいているけど、一緒に変化しているでしょうか?

どうしてこれがストーリーに巻き込まれる話と関係あるの?と思われるかもしれません。もう少し我慢してください。

気づいている意識は、時間の変化に気づいているけど、時間とともに動いているでしょうか?

“私”である気づいている意識が確立されていけばいくほど、時間の幻想からも解放されていきますね。

というのも、時間も自我の苦しみを生む大きな要因の一つなんです。エックハルト・トールのいう「心理学的な時間」です。

個の私が生まれて、人生を生きて、そして死んでいくというストーリーは、時間の中にしか存在できません。

そして、それだけが実在だと思っていたら、そこで起きることは非常に重要性を帯びていきます。特に自分がどうあるか?自分の人生はどうあるか?は、一番の関心事になりますね。

もし、自分の人生でものごとがどんどん悪くなっていくだけだったら、生きる意味を見出せるでしょうか?

時間を生きているということは、ストーリーを生きているということ。そしてそこで自我が望んでいることは、そのストーリーが良い状態であること。

だからもしかすると、真実ではなくて、常に穏やかな状態、幸せな状態を単に求めているだけかもしれません。

でも、気づいている意識である“私”がベースになればなるほど、人生を明け渡すことは、小波が大海に身を任すことだと見えてきますね。(もともとそれしかできないのですが)

個の自分の人生を動かしているのは大海だから、来た波、起こる波、いろいろあるけど、大海が起こしているものを信頼しよう。

そして、時間のないところをベースにすれば、自分をなんとか良くしたい、自分の将来をどうにかしたいというストーリーからも解放されていきます。

他者の言動に動揺したり、出来事に巻き込まれるのは、それによって自分や自分の人生が脅かされると感じてしまうからです。(無意識のレベルのことが多い)

でも、時間が幻想だと分かれば、あらゆるストーリーは、絶対的に永遠で時間のない“いまここ”の私によって気づかれていて、そして愛されていることが見えてくるでしょう。

なぜなら、絶対的に永遠で時間のない“いまここ”の私は、変化するストーリーそのものでもあるから。(空即是色)

長い話になってしまいました。

要は、あなたは大丈夫♪ということです。だは。

東京で3月25日(土)午後ノンデュアリティと癒しのカフェを開催します☆
キャンセル待ちとなりました。ありがとうございます。

今回はまた表参道に戻って、少人数でまったりと行きます。
宜しければぜひ遊びにいらしてください♪

私がパソコンを見ているという錯覚♪

日本ではノンデュアリティの解釈がびっくりするぐらい様々で、自由といえば自由なのかと思いますが、ちょっと“いろは”に戻ってみたいなと思いました。

ということで、

「観察者と観察されるものという、二つがあるのではない」(非二元)

つまり、私(観察者)と世界(観察されるもの)の二つではない。

ウパニシャッドから禅、クリシュナムルティ、ニサルガダッタ、ノンデュアリティ

みんなが指し示している大切なメッセージ。

これは、ほんとうはすべてはワンネスでつながっているという意味ではなく、見るものと見られるものは、文字通り分けられないという意味ですね。

つまり、例えばたった今、 “私がパソコンを見ている”というのは錯覚だということ。

主体としての個のあなたが見ているのではなくて、また、その見る対象としてパソコンがあるのではないということです。

私、見る、パソコン、は分けられないということ。

私たちの多くの失敗は、それについて“どういうことだろう?”と考え始めてしまうことでしょう。

でも、太陽は東から昇り西に沈むと教わったとき、それについて考えるより、実際に観察するほうダイレクトな理解になるでしょう。

まったく同じように、あたかも自然科学の観察でもしているかのように、いまここを観察してみるんです。(ダイレクトパス)

体はある
思いはある
感情や感覚はある

では、その所有者はいる?

観察してみませんか? 考えずに。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

う~ん、見つからないけど、私がいるという感覚がすごくある?
そうであれば、それらの感覚を見つめてみませんか?
ほんとうにその感覚の中に実体がある“私”がいるかどうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真摯に、時間をかけて・・・・・・・・・・・

では、次に、

見るという経験はある
風景はある

では、見る経験と風景は分けられますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

初めからまとめてみます。

体はある
思いはある
感情や感覚はある

そして、

見るという経験はある
風景はある

そこに経験者である“私”はいますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

もし、どうしても見つけられなかったら、では誰があらゆる経験のすべてに気づいているのでしょうか?

経験者なしに、経験だけがあって、経験と経験されるものは分けられなく、でも、気づいている・・・。ここで頭は停止するはず。

私がいるという刷り込み、脳が捉えているという刷り込み、目や耳が見たり、聞いたりしているという刷り込みのすべてを置いて、すっかり思考が静まったとき、そこにあり続けてみます。(無眼耳鼻舌身意)

ちなみに、脳や耳、目、鼻といった体の器官はもちろんその機能を果たしています。でも、カメラも映像を捉え、レコーダーも音をキャッチします。人工知能も開発されてきました。

でも、それらは見たもの、聞いたもの、捉えたものに気づいているでしょうか?
それらは、そもそも観察者と言えるでしょうか?
また、耳も音をキャッチしていますが、聞く経験をしているでしょうか?

やはりここで同じ問いに戻るのです。

経験者はどこにいる? 
そして、誰が経験に気づいているの?

めちゃくちゃ地味な話に聞こえるかもしれません。

でも、経験者と経験されているものが一つであると分かったとき、個の私だと思っていた私は、全体の私、気づいている意識の私、純粋意識の私だと見えてくるはずです。

そのとき、ずっと求めていたものが見つかるでしょう。
そして、生きる宝のすべてがここにあることも♪