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あまりに明らかな存在の秘密

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発作的に訳したくなることがあります。ので、今回も発作的に訳しました♪

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神はどこにも宿っておらず、また神の中には何も存在していない。

神へ入っていくこともなければ、神から生まれ出ることもない。

こんなふうに、学説的な知識や理性、理解や推測、または五感や肉眼、心の目や世界観を通してではなく、

あなたは神というものを知るべきだろう。

神以外、神を見る者はなく、神以外神を知る者もいない。

神は神自身を通して、自分を知り、神は自分によって神を見る。

神以外に神を見る人もいないのだ。

神のベールは、ワンネスそのものであって、神以外に神を覆うものはない。

神が神を覆い、神の存在はどんな条件もなく、ワンネスによって隠されているのだ。 

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これは、12世紀から13世紀に生きた、当時イスラムの世界の中でももっとも影響があったティーチャーと言われている、Ibn ‘Arabiという人の本からの抜粋です。(写真参照)

自我はどうしても分離の発想がベースになるので、自分と神との関係も、「自分がいて、神がいる」、「あらゆるものがあって、それは神から生まれた」といったような世界観で捉えますよね。(科学的な観点は一見違いますが、分離ベースなことは同じ)

ワンネスを謳うスピリチュアルでも、基本的には個の自分がいることが前提になっていて、個の自分が全体とつながるとか、全体になるとか、そんなイメージが多いかもしれません。

かつて、奇跡のコースの“この世には誰もいない”という言葉に触れたとき、直感的にここに真実があるとは思ったものの、意味がさっぱり分かりませんでした。しかし、その後ノンデュアリティの教えに深く触れるようになり、私が何かを見るという主体と客体の関係性が落ちたとき、この意味が見えてきたのです。

自分がいないということは、自分の経験を見ているのは、自分ではないということ。気づいている意識しかこの世にはないということ。

これは私がたびたび引用しているマイスター・エックハルトの言葉、

“私が神を見る目と神が私を見る目は同じである”

The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.

ともまったく同じ意味を指しているでしょう。

自我の自分は、自分が世界を見ていると思っているけど、本当は自分は見られている側ですね。

自分の体も、感情も、思いも捉えることができます。

でも、自我の自分から体と思いと感情を取ったら? 自我の私はたちまち存在しなくなるでしょう。

また、体も思いも感情もすべて現れては消えていく変化するものです。

でも、自分の経験の中で唯一変化しないもの、唯一捉えることができないものがあります。

それが気づいている意識ですね。

それを神と呼んでも、空と呼んでも、ブラフマンと呼んでも、なんでも良いわけです。

大切なのはそういった知識ではなく、それが自分だと体験的に分かっていることでしょう。

そのとき、必ず主体と客体の分離した世界観は崩れ、あらゆる質問が落ちるはず。

この世には一つの目しかなく、それはあまりにすべてに浸透しているから、

または、あらゆるすべてそのものだから、

分離の目しかない自我は逆にスルーしてしまう。

だから隠されたワンネス。ワンネスの次元がどこかにあるのではなく、

今ここにすべてがすでにいつも明らかになっていて、

と同時に、自我にとってはそれは存在の隠された秘密。

う~ん、トニー・パーソンズの「開かれた秘密」という言葉はほんと見事だ。

《原文》
He is not in anything and no thing is in Him, whether entering into Him or coming out of Him. It is in this way that you should know Him and not through theoretical knowledge or reason, understanding or conjecture, not with the senses, the external eye or interior sight or perception. No one sees Him expect Himself and no one knows Him expect Himself. Hi knows Himself through Himself and He sees Himself by means of Himself. No one but He sees Him. His veil is His oneness since nothing veils Him other than Him. His own being veils Him. His being is concealed by His oneness without any condition.

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

すでにご存知の方も多いと思いますが、お知らせしちゃいます。

インテグレイテッド心理学開催します♪

2018年5月26日(土)、27日(日)

自分は分離していると信じた時点から、すべての自我に共通する心の動きとはなんでしょう? 私たち全員が日常に無意識にしていることや、あらゆる苦しみのしくみを知ってみませんか?

詳細はこちら

 

 

 

ノンデュアリティの神髄♪

年の暮れではありますが、ルパート・スパイラさんのフェイスブック投稿の記事があまりに良かったので、シェアをしたいと思いました♪ ノンデュアリティの神髄をこんなに詩のように語れるとはほんと素晴らしい!

PURE KNOWING

In the world
I am the seen
In the seen
I am the seer
In the seer
I am the seeing
In the seeing
I am pure Knowing

As pure Knowing
I become the seeing
in the seeing
I become
the seer
as the seer
I see the seen
as the seen
I appear
as the world

純粋な気づきの意識

世界の中で
私は見られるものであり、
見られるものであって、
同時に私は見る者であり、
見る者である中で、
私は“見ること”でもあり、
“見ること”である中で、
私はそれに気づいている純粋意識である。

純粋な気づきの意識として、
私は“見ること”となり、
“見ること”として、
私は同時に見る者となり、
見る者として、
私は同時に見られるものとなり、
見られるものとして、
私は世界として現れる。

見られるもの(風景、物)、見る者(個人)、見るという経験、それに気づいている意識は、どれもどこも決して分けられない。つまり、分離はどこにもなく、私という個の経験者もいない。

風景、個人、見るという経験、それらのすべてに気づいている意識。それが「私」。

分離していると思っている自我の目にだけ、世界は分離して見える。

でも、ほんとうは純粋な気づいている意識のみが存在する。

空間も時間もなく。

そして、分離が消えたときあるのは愛だけ♪

皆様、良いお年をお迎えください。(*^_^*)

PS: 空と色も二元と非二元も決して分けられない。
分けられないものを分けて考える限り、それは自我のストーリー。
二元の世界などどこにもないし、非二元の世界もない。あり得ることができない。
ここがすでにいつも非二元♪

■ お知らせ ■

「ノンデュアリティと癒しのカフェ」開催します♪

日程:2018年2月4日(日)14時~17時
場所:CTW表参道(原宿、表参道)
http://www.cultureomotesando.com/access-map/
参加費:5000円
申込フォーム:https://www.form-answer.com/applications/BWPNW

 

 

世界を見ている一つの目、一つの愛

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「私が神を見る目は、神が私を見る目と同じ。私の目と神の目は一つ。一つの目、一つの見る、一つの気づき、一つの愛」

The eye through which I see God is the same eye through which God sees me; my eye and God’s eye are one eye, one seeing, one knowing, one love.

それは「私はいない」ということ、
(聞き飽きたって自我はいうかもしれない)

そして私と思っていた「私」とは、神(気づいている意識、純粋意識)であって、
   
それしか存在しないということ。
     
「私はある」と分かっていて(one knowing)、そしてあるのは愛だけ(one love)
   
言葉遊びでも、哲学でも、教えでも、スピリチュアルでもなく、
ただその真実をありのままに認めたら、
自我は自分がいかに幻影であるか知るだろう。
    
と、同時に幻影の自我は、こんなにまで生き残りを目指し、
小さな心を震わせて全身全霊で生き抜こうとしている。
  
それは、あまりに尊く、愛おしく、感謝の気持ちがあふれ出る。
  
悲しみ、苦しみ、果たせなかった夢、
  
たくらみや裏切り、嫉妬や怖れ、
  
自我が陥るたくさんの罠、誤解、混乱の数々
  
経験しているのは自分だと思い込んだとたん、
「私」は自我の私と錯覚され、これらのストーリーにどこまでも落ちていく。
  
それは目隠しをしたまま生きているかのようで、
  
真実がどこにあるのか見えないまま、
   
幻影の自我は必死に生きよう、生きようと、
   
震える魂を抱えたまま・・・・・・、
   
よく頑張ったね、寂しかったね、怖かったね、
愛されたかったね、見つけて欲しかったね、
   
幻想の自我よ、
   
知っている?
   
あなたはものすごく愛されていることを
   
知っている?
   
あなたが愛に飢えているとき、
   
それは愛によって静かに受容されていることを
  
でもね、知っている?
   
あなたはいないのだよ、
   
“なんだって!こんなに頑張っているのに!私の大切な思い、
大切な人たち、大切な私・・・・、いないなんてあんまりだ、”
   
“だって絶対いるじゃないか!否定しようがない!”
  
“生きる意味が分からなくなる、虚無感に陥る話なんて聞きたくない”
   
もう一度言うよ、
  
あなたの目が神の目だということを、
  
世界を見ているのはあなたではない、
   
そしてあなたは何も失わない、
    
ただ、目隠しを取って、
   
あなたが神を求める目と神があなたを見る目は同じであると気づいてみよう。
  
それはすべての自我の心にある「希望」という灯
  
よく見てごらん。
  
この世に70億のあなたはいないのだから、
  
世界を見ているのはただ一つの目、
   
そしてそれはあなたが家路につける「福音」♪

ハッピー・クリスマス♪

※写真はラファエロ前派George Frederic Watts作絵画:「希望」

■ お知らせ ■

「ノンデュアリティと癒しのカフェ」開催します♪

日程:2018年2月4日(日)14時~17時
場所:CTW表参道(原宿、表参道)
http://www.cultureomotesando.com/access-map/
参加費:5000円
申込フォーム:https://www.form-answer.com/applications/BWPNW

人間を深く、人間を超えて♪

ノンデュアリティブームでは、「私はいない」、「すべてはストーリー」という「空」の側面を強調したメッセージが讃えられた。「ない」が強調されたメッセージ。

そのメッセージを好む人たちは、人間という営みやストーリーの愛おしさを語るメッセンジャーに、“まるで私がいるかのように話している”一貫性がない、ぶれていると批判。

その一方で、「空」を強調するメッセージに、人間味がない、愛が感じられない、高いところから話していると批判する人たちもいる。

アジャシャンティによると、これは昔からあった戦い(笑)だそうだ。

でも、きっと大切なことは、真実を分断しないことだろう。

翻って私はどうだろう?

私は“生命”を生きたいと思う。今の場合は、人間を生きたいということだ。

でも、生きるという意味をほんとうに見つめると、どうしても自分の本質は何か?という問いにぶちあたる。

自分の本質を知らずに、どうやって人間を深く、微細な心の動きまで充分に生きられるだろうか?

その問いは、私自身を人間を超え、ストーリーを超えた真実へと導いていく。

すべては夢であって、実は何一つ起きていない。

と同時にどうしても否定できない人間としての営みが延々と続く。

徐々にアイデンティティもストーリーもない本質が自我を浸透していく。

そして、人間を深く生きることと、人間を超えることが同じであるという矛盾を生き始める。

それは赤ちゃんのような歩み。

なんてことだろう。私は今まで生きるということを知らなかったのだ。

人生を生きるのではなく、人生をやっていただけだった。

生きるとは、生命に真にオープンになるということ。

守りの城壁を落として、脆弱さを抱きかかえるということ。

ユニークな現れ(あゆか)として、その現れが持つ葛藤、迷い、喜び、情熱、恐れ、混乱をすべて感じ尽くすこと。

「私の人生」というドラマにはまりすぎて、ただ盲目に生きていた。

「私」というドラマにはまりすぎて、思考のおしゃべりと怒りや恐れに振り回され過ぎていた。

やっと目が開いて、人生をよちよちと歩いている。

 

 

 

経験しているのは誰?

≪フェイスブックに投稿した記事です♪≫

突然ですが、非二元♪

非二元とは、

サンスクリット語のadvaitaを日本語に訳したもの。

aとは、not(でない)という意味
Dvaとは、two or both(二つとか両方)という意味

シンプルにそのまま「二つではない」

二元という訳語に惑わされ過ぎないほうが良いだろう。
そこに何の意味もないから。

ということで、じゃぁ次の質問は、

どの二つではないの?

いや、ほんとうに、まじめに

どの二つ?

二元と非二元というように、
二つではないと言っているものをまた分けないように
ますます意味が分からなくなるから。

話を戻して、どの二つではないの?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

“私が蝶々を見ている”

私と蝶々という二つがある?

私がいて、蝶々がいるのではなくて、見ている人はいない。

そこには、「見る」が起きているだけで、

そして、見ると見られるものも分けられない。

自我はすぐに考えて分かろうとするかもしれない。

でも、考えないで。

ここが踏ん張りどころ

経験者と経験されるものの二つではない。

私が蝶々を見ているのではなければ、

誰が見ているの?

ここに留まってみよう。この問いに・・・。

ここにすべての答えがあるから。

自我が求めるすべての答えがあるから。

あるのは「気づいている意識(愛)」だけで、

気づいている意識があらゆる経験のダンスをしている。

壮大で、ときに悲しくとも、愛おしく、それは神の遊戯

永遠に続く遊戯。

あぁ、すべてがどれだけ愛されていることか・・・・。

ノンデュアリティ~童謡編

少し前にフェイスブックに投稿した記事です。
《隠れたノンデュアリティ~童謡編♪》 ※動画のアニメにも注目

ボートを漕いでいこう
優しく流れに従って
楽しく、陽気に愉快に
人生は夢に過ぎないから

Row row row your boat,
gently down the stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
life is but a dream.

~~~~~~~~~~~

生命に降参するんじゃなくて、
降参しかないのだと気づく。

だんだん自我の抵抗が減っていき、
優しくボートが漕げるようになって、
生命の流れが私の人生を運んでくれる

夢の中の私はどんな形で運ばれるのだろう?
喜びや温かさ、悲しみや心の痛み
すべてが祝福と分かるまで
人生を味わいながら
最後は夢の中に消えていく。

でも、夢の目撃者の「私」は残る

認識しているのは脳でもあなたでもなく・・・

☆記事の更新は一応辞めていますが(笑)、ありがたいことに購読を登録する人が止まないので、フェイスブックでつぶやいていることをこちらにも配信します♪ ものすごくたまの更新になると思いますが、宜しくお願いいたします☆

☆☆☆

ものごとを認識しているのは脳で
その脳を持った自分が世界を知ったり、見たり、聞いたり
しているのだと思っている限り、
あなたはずっといまここにある「空」、
気づきの意識としての自分を見過ごし続けるだろう。

あなたの喜び、悲しみ、密かな思い、欲望、
それに気づいているのは、あなたじゃなく、
気づいている意識

あなたはいない

気づいている意識があるのみ

それに自我が気づく

自分は幻影だったのだと気づく

それでも、自我の幻影のストーリーは生々しく続くけど、

生と死も幻影だと分かるから

幻影の自我は真の自分にくつろぐ