コンピューターのスクリーンを見ているのは誰?

椅子に座って、ラップトップのキーボードを打っている。思いが沸いて、即座に指が動き、文章が綴られいく。目がスクリーンの字を追っていく。ふと思考が止まり、目がスクリーンから離れる。好きな音楽が流れ、外からは飛行機の音もわずかに聞こえてくる。紅茶でも飲もうかなと思い、一旦キーボードを叩く動きを止める。椅子から立ち上がって、そそくさとキッチンの向かう・・・。

掴むことができるものすべてがあなたでないとしよう。体は体に気づけないし、思いは思いを振り返ることはできない。体、思い、感情、感覚に気づけるということは、それらに気づける第二の存在があるはず。体でも、思いでも、感情でも、感覚でもない存在が。

あなたが今ブログの記事を読んでいるということは、見る経験をしているはず。目が自然にスクリーンを追っているだろう。同時に考えが起き、椅子に座っている感覚もあるはず。

あなたはマウスを握っている自分の手(体)を見ることができ、感じることができるから、体はあなたではない。ブログの記事を読んで沸いて来る思いを知ることができるから、あたなは思いでもない。

見るという経験があるから、コンピューターのスクリーンが見える。聞くという経験があるから、音楽や飛行機の音が分かる。考えるという経験があるから、文章が綴られていく。感じるという経験があるから、自分の手がキーボードに触れていることが分かる。

でも、あなたはそれらの経験があることに気づくことができるから、あなたはそれらの経験ではない。

では、これらに気づいている「自分」はどこにいるだろうか?

体も思いも感情もあなたでなければ、誰が見ていて、誰が聞いていて、誰が感じていて、誰が考えているのだろうか?

自我は、「自分だ」というだろう。脳が考えていて、眼が見ていて、耳が聞いているのだと。

だとしても、それらに気づいているのは誰?

目が何かを捉え、それについて考えが沸いて、次にまた目が何か別のものを捉え、違う思いが沸く・・・。それらの変化に気づいているのは誰?

思考が沸いて去っていき、注意を向ける先が変わったり、体のいろいろな感覚、起きてくる感情や衝動・・・、これらに気づいているのは?

これらのすべてに気づいている意識にベクトルを向けてみよう。

気づいている意識を掴むことができるだろうか? なにか性質はあるあろうか? 大きさや深さ、広さ、そういったものがあるだろうか?

それともそれは「ただあって、気づいているだけ」だろうか?

そこにただ留まってみる。

それでも、いつもの個の自分の感覚が強いかもしれない。

その個のような感覚と気づいている意識を分けることができないから、ほとんどの人が気づいているのは、個の私だと錯覚してしまう。

でも、その感覚をよく見てみよう。そこにほんとうに「わたし」はいるだろうか? それとも最後まで感覚があるだけ?

考えに行かずに、ただ経験に留まってみよう。

さて、気づいている意識と見る経験の間に距離はあるだろうか?

見る経験と見えているものの間に距離はある?(自分の体という“もの”とコンピュータという“もの”の間の距離ではなく)

多くの人は見えるもの、聞こえるもの、感じられるものにいつも心が奪われているため、見る経験、聞く経験といった経験そのものに意識を向けることに難しさを感じるかもしれない。

でも、見るということが起きていて、聞くということが起きている、感じるということが起きていて、これらの経験を否定することは決してできない。

気づいている意識 ― 経験 ― 経験されているもの。

これらの間に一切距離はなく、またそれらを分けることも決して出来ない。

これ以上にないぐらいに“直接”見れば良いだけ。すると・・・・、

主体―客体の幻想は滅び、すべてが一つの大きな流れ。

あなたはだから気づきの純粋意識でもあり、経験そのものでもあり、そして経験されているもの。

ダイレクトパスとは、メソッドでも理論でもなく、シンプルに“直接”今ここで起きていることを見つめていくもの。

真実の鍵はいつも手元に♪ (❁´▽`❁)*✲゚*

 

コンピューターのスクリーンを見ているのは誰?」への17件のフィードバック

  1. そら

    この気付いてる意識、というのは人間だけにあるのでしょうか?
    動物はどうなんでしょうか?
    動物も人間の意識が作り出しているのでしょうか。

    わけのわからない質問ですみません・・。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      そらさん、こんにちは☆

      人間=分離した個人がいるというのが大前提となっているご質問かなぁと思います。人間が~という以前に、主体「わたし」がいるのかどうか、そちらがポイントです。きっとこの文章を読んで直接見てみるより、考えちゃっている感じがしますので、もし、本当にそれが知りたければ、考えに行かずによ~く見てみてくださいね。何度も何度もしつこく。(*^▽^*)

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  2. ひとみ

    私はいない
    ブログを読んでるけど、読んでいるのは私ではない
    では、それは誰?
    何かを感じてるけど、感じてるのは私ではないってこと?
    ただ、読んで感じてるだけ
    ???

    なんか、モヤモヤ

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      1. ひとみ

        こんにちは。ひとみです。同じ名前の方がいて驚きました。
        こんなことも起きるんですねぇ〜
        あゆかさん いつも、でしゃばってすみません。

        ひとみさん
        私は、逆に「静けさを感じますか 」byアジャシャンティ
        を実践してみて
        私は在る(個人意識の私はいない)という本質の自分に在れるようになりました。

        このとき本当に何も起きていなくて、誰もいなくて、これしかありません。
        何も起きていないので 変化がありません。
        ここに在れば、そのモヤモヤが ただ起きているだけ♪と
        決して深刻になることがありません。

        前に、あゆかさんが書いてくださっていました。

        「私はいない」という気づきの意識に
        しっかり寄り添い
        そっちの方が自分であることが、しっかり理解できれば
        思い、感情、感覚、体は 捉えられることができるもの、変化するもの
        つまり起きている出来事のほうであって
        主体ではなく、そこに持ち主がいないことが
        自ずと見えてくるはずです。

        と。

        あゆかさん 最近感じたことですが
        私はいないという気づきの意識に在ればあるほど
        不安が起きても よしよし^ ^
        恐怖が起きても よしよし^ ^
        怒りが起きても よしよし^ ^
        になります。

        でも、気づきの意識に居なくて
        起きてきた不安や恐怖や痛みにガッチリ向き合っても
        (自分にガッチリ向き合っても)
        私はいないー私は在る に行くんですね〜

        「ほんとうの自分」は
        思考の根底に在る「大いなる存在」であり
        痛みの根底に在る「愛」と「喜び」です。 byエックハルト・トール

        なんですね。

        感謝

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      2. 匿名

        私は、一読者ですが、
        こんな私でも、いつもの ひとみさんとは別人だと、すぐに分かりましたよ。

        あゆかさんが、どんな対応されるな~と思って見てたのですが…
        さすが!と思いましたよ、かわいい~感じで♪

        他の…も、なんとなく嫌な印象を受けたのですが…
        さすがあゆかさん~!と勉強になりました(^_-)☆

        ※この投稿マズかったら、全然消してもらってかまいませんので~(*^_^*)チョットオモッタダケ!

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  3. rusland

    いつもありがとうございます〜☆
    あゆかさんがこのブログで一貫して書かれていることと、
    井上哲玄老師(もちろんご存知ですよね)のおっしゃることは、
    「気づいている意識=このものに親しむ」というポイントで完全に一致していて、
    ぼくは密かに、いずれは実現しそうなお二人の対談を楽しみにしていたのですが・・
    そのオファーをまとめる最短距離にいたテディさんが天国に行ってしまって(涙)
    それで一読者であるぼくが、あえてさしでがましいことを書いてみようと、
    今、急に思ってしまいました。どうぞその素敵な流れが訪れますように・・
    七夕の翌日になりましたが、お星さまにお願いしておきますねw

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    1. ayukablog 投稿作成者

      ruslandさん、こんにちは☆

      テディさんの突然のご逝去にはほんとうに驚きました。ただ、ものすごく素敵な場所にいらっしゃることは間違いないと感じています。心の中でご冥福と感謝の思いを伝えております。

      井上哲玄老師とは、それこそご縁があればお会いさせて頂けるのでしょう。(実はテディさんからオファーを頂いていましたが、日本にいるときは忙しく実現しませんでした)「このものに親しむ」という言葉、素敵ですね。(*^▽^*)

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  4. よしこ

    あゆかさんいつも素晴らしいメッセージをありがとうございます。

    今回の話の内容とは違うコメントになってしまうのですが、毎回非二元を言葉を通して触れることができることに感謝致します。

    いきなりですが…
    自我の仕業だとわかっていても生きていく過程で絶対的な安心感を求め、そしてそれを保持したい衝動がやむことはありません。

    非二元が人生の参考(how to)にならないことは重々わかってはいてもメッセージの中に求めてしまう。

    自我は「わかりたい」
    絶対的な何かを知りたいと常に常に…

    でもこのメッセージに触れていると「わかりたい」という先にあるか何か…、理解の先にある何か…

    言葉でうまく表現できないのですが、決して理解すること掴むことができない絶対知りえないスペースに投げ出されることがあります。

    そして「わからない」「掴めない」スペースに投げ出され一気に力が抜け私が思考型のせいもあると思うのですがそれがとても心地いいのです。

    今も「わかりたい」衝動が止むことはなく、また「わからない状態」を再現しようとすることも起きますがこれも良しとし、これからも非二限のメッセージを理解を越えて触れていきたいです。

    ありがとうございます^ ^

    また何処かであゆかさんの肉声を聴けることお会いできること楽しみにしています♪

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  5. なつみかん

    あゆかさん いつもブログを楽しみに読ませて頂いてます。質問です。
    「気づいている意識」が一つの大きな流れであるといった場合に、この身体が体験することに「気づいている意識」は 他の身体が体験するすること(思考、感情、痛みなど感覚)に「気づいている意識」と同じなのですよね。体験はそこかしこにいっぱいあります。
    その全てに気づいているのに この身体を通しての体験しか気づけないのは、どうしてでしょう?

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    1. ayukablog 投稿作成者

      なつみかんさん、こんにちは☆

      このご質問は、とっても多いです。イギリスでも日本でも。気づいている意識は、「主体」ではなく、また観察者でもないんですね。すべてに(このすべてとは、今起きていること)気づいていると同時にすべてに浸透し、またそれらそのものなんです。

      人間を大海の中の渦巻きと例えた場合、水が気づきの意識(英語ではawareness)のような感じです。渦巻きは水であって、水は渦巻きの動きにすべて気づいているけど、渦巻きのような「個」としての現われ(本当は分離していませんね)でもあります。

      つまり、個でもあり同時に全体でもあって、やはりこれも二つに分けられないんです。これは、頭で考えるよりも、気づきの純粋意識にあり続けることで、この矛盾が体験的に理解されてくるかと思います。(^▽^)

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  6. アーサー

    あゆかさんいつも素敵な表現ありがとうございます。

    久し振りにブログのコメントを拝見すると、ruslandさんのテデイさんの訃報と対談の

    夢を読み、呆然とするとともに、一緒にその夢がかなうことをお祈りします。

    気づいている意識はなんとなくわかりますが、どうしても自分の意思がある気がして

    だって、この世を作りだしているのは、ほかならぬこの自分の意思ですから、なかなか

    手放せません。ふふふ、ですね。ふふふというと楽しくなります。訃報の話のあとに

    不謹慎ですが。お尋ねですが、気づいている意識にはものを作り出す力はないのですか。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      アーサーさん、こんにちは☆

      こちらこそお読みいただきありがとうございます♪ (*^▽^*)

      この自分の意志という「自分」は何を指していらっしゃいますか? もし、個の自分の意志ということでしたら、意志は現われますが、そこに主体も所有者もいないですよね。無理やり、主体客体の二元の発想でいえば、「個の自分」は作られた客体のほうです。椅子やテーブルと同じように。

      ですが、何かが何かを生み出すという二元的な発想をちょっと横に置いてみてください。また、大海の例を使ってしまうと、水(気づいている意識)が、波や渦巻きを生み出し、同時に波や渦巻きの動きに気づいていて、また常にそれそのものである・・・・。これは、比喩なのでその通りだと思わないでくださいね。

      宇宙も惑星も地球も人間も山も木も、小鳥のさえずりも、ため息も、すべてが気づいている意識の創造物であり、でもそこに意志をふりかざす行為者はなく、人間の想像を超えた知恵によってあらゆる現象が生まれ、消えていく、摩訶不思議♪ 

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      1. アーサー

        あゆかさん見ず知らずの者に、優しく対応心から感謝します。

        表現もつたないので、うまく伝わっているかと思いましたが、大丈夫だったようで嬉しいです。

        エッカート・トーレーと聞こえる、エックハルト・トールさんの奥さんのCD誘導瞑想を
        聞いて、インナーボディ感覚が分かった気がして、体中が温かいエネルギーに満たされた
        気がしたのですが、これは単なることばによるイメージの構築だと気づき、それを生み出しているのは、他なるあぬエゴちゃんの「個の感覚」のような「気がした」のです。

        この「気がした」方の気づきが「気づいている意識」ではないかと思い、こちらは何も
        創造していないような気がするわけです。

        たしかに、おっしゃる通り、人間の創造を超えた智慧によって
        あらゆる現象が生まれ、「消えて行く」摩訶不思議!
        「気づきのダンス」とはこのことでしょうかね。

        テディさんの訃報は参りましたが、今も参ってますが、ふふふという笑いの喜びを感じているエゴちゃんがいて、テディさんの笑顔も良かったですね、不思議な幸せ感があります。
        これも摩訶不思議!

        あゆかさんの、温かいほほえみを時々思い浮かべながら、残り少ない人生をエンジョイ
        出来そうで、本当に、本当に、ありあがたいです。では、ふふふ♪

        楽しんでいます。

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  7. issei

    ★☆しろ、と、ぱんだ、が、私だと感じた。

    私が死んでも、無くなっても、しろ、と、ぱんだ、が生きてることは・・

    私が生きてるのと、同じだと、思考や、空想的なイメージを入れずに、ダイレクトに感じた。

    他のものにも、このように、ダイレクトに私だと、感じていくのだろうか?

    「しろ」と、「ぱんだ」は、もう7、8年ほど、親しんで、束縛しないように、懇意にして、癒されている野生の鷹なのですが、

    私は、いつも、バイクに乗って、通勤などをしていますので、

    彼等と親しくなったり、交わる事がとてもプラスになってます。

    視野や感性などの自由度が一般的なライダーよりも広がり、感覚も、無理なく研ぎ澄まされていき、

    走行中の瞬間的で、突発的な、予期せぬアクシデントへの、身のこなしや、

    嵐や台風などの強風に煽られたとしても、抵抗して逆らうことなく、波に乗るが如く、

    まるで、飛んでるかのように、走る事ができ、

    そのような時に感じていました緊張や、恐怖感も、ほとんど起こらないで、逆に“喜び”にしてくれるような影響力を持たらしてくれた、

    大切な“友”だちと、勝手に思っているのですが・・

    それが、“私”だと、こんなにも直接的に、感じられますとは・・

    ただ、一寝入りしましたら、また、そのような事の、ダイレクトな感覚が、無くなり・・

    ただの、知識の認識的な理解に、戻ってしまいました。(^_^;)

    ダイレクトパスの考えが起こったり、意図などまったくしてなかったのですが、

    あれが、そうなのか?との、感覚の記憶は残りました。

    ♡とても、詳しい、記事を作って下さり、ありがとうごさいます。

     

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  8. ひとみ

    あゆかさん

    自分自身を決めつけていたことを
    全部手放してみたら

    私はいない

    でした。

    でも 永遠に変わらないこれは
    いつも在ります。

    こんなに単純なことだったんですねぇ

    感謝

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  9. エイジ

    あゆかさん~こんにちは^^

    >主体―客体の幻想は滅び、すべてが一つの大きな流れ。

    あなたはだから気づきの純粋意識でもあり、経験そのものでもあり、そして経験されているもの。

    この事は

    ありのまま~あるがままですが

    この事がわからない?理解できない?人も沢山居ますよね。。。

    この事が理解できない人たちは

    私の自我~エゴが囁きます。ジャッジします(笑)

    わからない?理解できないのは

    あなたの自我~エゴの領域が強い人だからと。。。

    私はジャッジをしてしまいます。。。

    そんなときは自分の傲慢がまた出ていると。。。反省。。。

    まあ

    そんなお方は

    自分の事で一杯一杯^^:なのだと。。。。

    愛されたい~子供なのかな?とも感じます。。。。

    一昔前に流行った「インナーチャイルド」

    そんなお子様(近所の90歳のお子様も居ます^^:)には

    「個は幻想」とか

    「わたしは居ない」とか

    非二元。。。

    到底理解~感じられないのではと感じてしまいます。。。

    >主体―客体の幻想は滅び、すべてが一つの大きな流れ。

    この事は少し前までは~人間関係で相手を主観で感じ~自分を客観で感じること

    そう捉えていました。

    (わがままで自我~エゴの強い人自分勝手な人は逆)

    そして今~行き着いた所は

    すべてが「愛」だと。。。

    そして

    主体―客体の幻想は滅びるということは

    すべてが

    愛こそすべてだと感じます

    愛もただ~感じる。。。

    そうあるだけ。。。

    この世の~幻想の夢

    いつ?目覚めるのかな?

    やはり~肉体が無くなるまで続くのかな?

    いや~この肉体の在るうちに

    この世は長い~なが~い幻想・夢だと気付くことですね。。。

    そして~肉体が無くなっても続くのでしょうね^^

    幸せを求めず~何が起ころうfが

    喜び~続ける。。。。

    ただ~今にくつろぎ

    永遠のいまだけを感じ続ける。。。

    最近ではこのこと意外は考えない~感じない様に成っている

    自分が居ます。

    いつも気付きに感謝いたします

    ありがとう^^あゆかさん^^

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