夢と知って、夢を生きる♪

私たちが現実だと思っているものは、実は夢なんだよ~ということを見分けるには、
やっぱりラマナ・マハラシから始まった“私は誰?Who am I”という自己への問いかけは、
欠かせないと思うのです。

正確に言えば、私は誰?よりも私は何?のほうが固体感がなくて良いかもしれません。

分離した個である自分が夢の中のキャラクターではなく、実在するものであるという前提でいくら真実を求めても、夢の中をうろうろ歩き続けてしまうでしょう。

なので、目指す方向性は、自分が何かのアプローチを通して目覚めていくというものではなく、自分という夢から目覚めること。

この違いは大きいですね。

自分目覚めるのか?

または、

自分から目覚めるのか?

夢の中の自分ではなく、本質である“私”(I AM)から現象を見てみると、
それは見事に流れていて、何一つ留まらず、すべては跡形もなく消えていき、
まさに諸行無常の響きあり、ただ春の夜の夢の如しですね。

ラマナ・マハルシに見えているほどのクリアさは、私には到底ありませんが、
それでも、夢に引き込まれて体が緊張してきたとき、
本質に寄り添い、過去に起きたこと、今起きていること、将来起きそうなこと
を眺めると、それらはただ静かに流れているだけ。

過去への後悔、今への努力、将来への不安なども夢の一部であって、
様々な感情や思い、ストーリーを生きていることも、
本質的にはすべて無害で消えていくもの。

どんなにおぞましいことをしてしまった自分もいないし、
どんなに素晴らしいことをした自分もいない。

嫉妬の渦に巻き込まれていても良いし、善意の塊になっていても良いし、
あらゆるドラマが起きては消えていく。

でも、自我から見れば、この世界にはまずいこと、悲しいこと、悲惨なことがあって、
ぜ~んぶ消えていく夢だね~って言っていいの?と思うかもしれません。

本質は自分でないものを目覚めさせようとする衝動があり、それは言い換えれば、
愛ではないものを愛に返したいという衝動。

分離した個であると信じることから起きる恐れ、そしてそこから生まれてくる
様々な心的な葛藤、抑圧、投影、防衛、攻撃。

それらを愛に返したい、と、同時に誰も本質的には悪くなく、
そして誰もダメージも受けていない。

夢の中でも夢から目覚めていても、一貫してあるのは“愛に帰る”という衝動。

虐待されている子どもを救いたい(愛)という衝動が起きたら、
それを“でもどうせ夢だし”という思考で押さえつけたりしない。

ハートに寄り添うと、思考が静まり、私たちは今ここに戻ってきますね。

だから、思考よりもハートがあなたが帰る道しるべ♪

 

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2019年5月25日(土)、26日(日)東京

分離した自分という思いを持った瞬間、どんな心のしくみが生まれるのでしょう?
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ノンデュアリティと癒しのカフェ in 名古屋

非二元の本質について、自我の構造、苦しみのしくみ、デモカウンセリングなど

日程:2019年4月21日(日)
時間:10時半~16時半
場所:愛知学院大学名城キャンパス(2502、2503教室)
http://www.agu.ac.jp/project140/campus/access.html
参加費:8千円
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https://www.form-answer.com/applications/TMMFK

“私”という感覚に隠されている真実♪

突然ですが、私という感覚は全員に共通してありますよね。

私がいる、私が話している、私が歩いている、私が・・・・・。

この「私感覚」=「気づいている意識」である、と言ったら驚くでしょうか?

空即是色、空と色は絶対分けられない、空と色の二つがあるのではない(=非二元)ということを思い出してみてください。

ちなみに、二元と非二元というように分けないでくださいね。二つではないと言っている意味が台無しになります。

いまここ、存在のすべてが非二元、空即是色、色即是空です。

ということで、「私という感覚」に戻ると、私感覚の中に二つの違う性質のものがあるはずです。

それは、気づいている意識(空)と気づかれているもの(色)。

もしあなたがメガネをかけていたら、鼻にメガネがかかっている感覚は、気づかれているものですね。

もし、あなたが今ウキウキしていたら、自分がウキウキしていることに気づいていますね。なので、ウキウキ感は気づかれているもの。

または、もし不安を感じていたら、自分が不安になっていることに気づいていますね。なので、不安も気づかれるもの。

悟りって、真実って~~と考えていたら、自分が何を考えているのか気づいていますね。ので、その考えもぜんぶ気づかれているもの。

そうやって見ていくと、私たちが普段主体だと思っている自分は、ぜんぶ気づかれる側のもの(客体)です。

気づくことができるということは、感覚や感情、思い以外の何かがないとそれらがあることが分かりません。

一つの思考が沸いて、一つの思考が去っていったと分かるのは、そこに去らないものがあるからですね。

ずっとそこにあり続けているもの、変化に気づいているだけで、決して変わらないもの。何かが生まれて、消えていくことに気づける意識。

それが気づきの意識で、もう一つあなたの中にある性質です。

思いや感情、体の感覚は現れて去っていくけど、“私という感覚”が去ったことはありますか?

意識と思考をいっしょくたにしている人は多いのですが、自分が何を考えているのかなぜ分かるのだろう? また、どうして変化が分かるのだろう?ときちんと見つめれば、そこに常にあって変化しない何かがあるからこそ分かることが見えてくるはずです。

奇跡のコースに「神の性質とは、純粋な精神であり、変化がなく、形もなく、永遠である」とあります。この神という言葉を気づきの意識と変えて読んでいただければ、同じことを言っていることがわかりますね。

また、奇跡のコースでは続けて、「だからこの世は実在ではない。この世は変化し、永遠であるものがなく、形を持っているのだから」とあります。

気づくことができるものは、すべて現れては消えていきます。しかも、どんなに強固なものに見えても、一瞬一瞬変化をしています。例えば、家具が5年間シンピカで6年目に一気に古くわけではありません。

一瞬、一瞬変化しているもの、次の瞬間に形が変わるものを「実体」と言えるでしょうか?だからこの世も私もあなたも実体のない夢なんですね。

さて、「私感覚」にもう一度戻って、違う言い方をすれば、そこには「気づいている私」と「気づかれている私(自我)」がいます。

私たちの一つの大きな勘違いは、この二つの私をいっしょくたに「私」という一人の個体だと思い込んでいることです。

もっと言い換えれば、変化するほう、気づかれているほうを自分だと思っているんです。

そして、自分の思い、感情、感覚に気づいている意識を個体の意識だと思ってしまうことです。(だって、自分の思いしか分からなくて、隣の人が何を考えているかなんて分からないし・・・と)

個人、個人の分離した意識があると。

では、例え話ですが(たとえ話はいつも途中で限界があるけど)、気づいている意識を大海だとします。そして、大海の中に水槽を入れたとしますね。その水槽には金魚が泳いでいます。

水槽の中の水は大海と分離した水でしょうか?

それともガラスで一見区切られているだけで、実際は大海とつながっているでしょうか?

また、水槽の中の水は大海と違う性質でしょうか?それとも同じ?

水槽の中の水は、水槽の中の金魚しか気づけないかもしれません。なので、一見大海と分離した個の水があるようかに思えるでしょう。

さ~て、これはたとえ話なので、実際にはもちろん水槽のようなガラスの仕切りはありません。でも、大海がどんな小さな波にでもなれるように、その可能性に限界がない気づきの意識がたくさんのミクロ化した意識を生み出すこともできるでしょう。(←最後の一文は私の想像です)

でも、大海がどんな形になっていようと、その性質はまったく同じものですね。小波であろうが荒波であろうが、そこにただあってみれば、大海の自分が感じられるはずです。

気づいている意識もただあってみたとき、どんなに観察しても、そこに何の区切りもなければ、形もなく、そして常にそこにあることが分かるでしょう。

私たちの本質はこの気づいている意識であって、金魚のほうではないんです。

さぁ、ここまでの話だと、気づいている意識と気づかれるものの二つがまだありますね。

見るものと見られるもの。主体と客体。

ということで、いつもの大海と波の例えに戻ります。先ほどの水槽の話はすっかり忘れてみてください。

大海が穏やかな小波になっているとき、その大海という主体が、分離した小波という客体を作ったのでしょうか?

大海は小波にはなれますが、小波を“見る”ことはできるでしょうか?

大海が気づきの意識だとしたら、小波があることに気づいているのは、小波自身?それとも大海?

小波がゆらゆらとしているのを経験しているのは、小波?それとも大海?

自分は小波なのだ!と強く同化すれば、あたかも小波が自分を経験しているように思えるでしょう。でも、自分は大海だったと分かったら、小波の中に誰か経験者はいるでしょうか?

二つの違う角度からの違う例えで、もしかすると混乱してしまった方もいるかもしれません。

でも、一番お勧めは、このたとえ話を読んでじ~っと考えるのではなく、実際に観察してみることです。頭で理解できたと思ったら、たぶん何かが違うでしょう。

自分の中にある気づいている意識と気づかれるものを徹底的に見てみる。思考を一切介さないで。(思考は気づかれる側のほうでしたね)

そして、気づけることができるものをすべて自分じゃないとしたら、残っているものは何でしょう?

その唯一残ったものに、ただあってみてください♪

 

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日程:2019年4月21日(日)
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自我の真の望みは自分の消滅?

もしかすると私たちは「悟り」という言葉に幻想を抱き過ぎているのかもしれません。

悟った人の脳の状態は~~である・・・、

悟った人は常に心が穏やかである・・・、

悟った人は風景が自分とは違って見えている・・・、

というような。

または、

悟れば、悩みがなくなる、苦しみが消える、いつも受容と喜びを感じていられる・・・、

というのもあるかもしれません。

とりあえず、私はこういった幻想の中に長く深くはまっていましたので、一瞥体験をするまで自分には悟りは無理、関係ないものだと思っていました。

ただ、ティーチャーのメッセージは好きだったので、自分のためにあれこれ読んでいたものです。

自我はものごとを複雑にするのが大好きで、また複雑なものを理解したときに、あぁ~~、なるほど、それが真実か!と分かるもの・・・というストーリーも抱きがちかもしれません。

でも、もし悟りの定義が、「真実を知ること」だとすると、シンプルになればなるほど、それは否定しようもなく常にいまここにあって、ちょっとした問いをすれば、それは誰もが分かるはずです。

ちょっとした問いとは、

ラマナ・マハルシから始まったSelf Inquiry(自分への問いかけ)で、例えば、“私はなにもの? Who am I”など。

このときのコツは、頭で考えずに、今起きていることをじかに観察することですね。

“体、思い、感情、感覚を所有し、コントロールしている私はどこにいるのか?”

“個の私という感覚は一番どこに強くあるのか?”

“その感覚は何でできているのか?”

“所有者の私が見つからないのなら、経験しているのは誰?”

自然観察をしているかのように自分に問いかけ、見つめていく。

葉っぱの生態が知りたかったら、葉っぱについて考えるより、できるだけ正確に観察したほうが良いですよね。

それと同じで、自分について知りたかったら、考えないで、できるだけじっくり観察したほうが良いでしょう。

こういったシンプルでダイレクトな観察で、誰もが真実を知る(=思い出す)ことができるはずです。

そして、このシンプルでダイレクトな問いは、“私”を分解し、その存在の幻想性を見抜くので、“私が悟った”にはなりようがありません。

ノンデュアリティという言葉が入ってきたころ、“私ができることは何もない”という言葉に、“じゃぁ、何もしないほうが良いんだ”と、思った人もそれなりにいたようです。

が、私が悟ろうとすれば、自我を強めますが、私を分解する方向で見つめていけば、それは自我の崩壊につながります。

個の所有者、行為者、経験者がどこにも見つからないこと、

思考は勝手に浮かんできていること、

思考と感情と感覚、体という見事な連結プレーだけがあること、

私が癒しで目指していることも、ストーリーの改善ではなく、ストーリーの解体です。“無力な私”を癒して、“できる私”にすることではなく、無力な私そのものが幻想であると知ってもらうことです。

改善されたストーリーの中で、できる私を維持するよりも、解体して、気づきの意識が土台となったとき、ほんとうに休まった気持ちでいられるでしょう。

自我が真に望んでいること、つまり、真実を知りたい、楽になりたい、真の平和を感じたいという欲求の行きつく先が、自分の消滅であるというのは、ある意味ショッキングなことです。

でも、言い換えれば、それは真の私がもう幻想の私をやめて真の自分に戻りたいという熱い欲求ですね。

ただ、それにほんとうに気づくまで、自我は自分の生き残りに全人生をかけ、自分がどうしたら楽になれるか?どうしたら人生をうまく生きていけるか?ということに情熱をかけていくのでしょう。

もちろん、それも悪いことではなく、今その人に起きている生命の衝動ですね。

でも、きっとどこかの段階で人生が苦しすぎて、または人生のドラマに飽きすぎて、または純粋に疑問が浮かんで、自分の生き残りよりも、本質、真実へ帰りたい欲求が上回るのかもしれません。

と、考えれば、人生が苦しすぎて行き場がないと思ったとき、人生の意味って何だろう?という本質的な思いが自然に沸いて来ることは、ホームカミングへの大切な岐路で、悪いことではないですね。

つれづれに思うまま書いてきましたが、久しぶりに名古屋でノンデュアリティと癒しのカフェを開催しま~す♪

自我の解体と問いのデモなども致します。(なんかマグロの解体ショーみたいな言い方)

皆さんと直にお会いし、カフェにいるかのように気軽にやりとりができたら嬉しく思います♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ in 名古屋 ☆☆☆

非二元の本質について、自我の構造、苦しみが生まれるしくみ、デモカウンセリングなど

日程:2019年4月21日(日)
時間:10時半~16時半
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参加費:8千円
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いつまでも頭の理解なんです・・・。

真実を知りたくて探求を長く続けているけど、今だに頭の理解でしかない・・・とおっしゃる方がそれなりにいます。

知識は増えていくのに、実感がまったく伴わない・・・。

一つは、確かに真実を知りたいのだろうけど、思考を手放す準備がまったくできていないという場合があります。思考(頭)を手放さないから、いつまでも頭の理解だけ・・・。ある意味当然の帰結です。

思考を手放すとは、瞑想の時だけ思考を鎮めるという話ではありません。すべての思考をあてにしないということです。ほんと~にすべての思考を。

私はセラピスト養成講座を長く続けていますが(次回で一応終了)、実は癒しのベースも「中立で透明な立ち位置(考えが邪魔しない立ち位置)」というのがとっても大切です。

考えに邪魔されず、しかもどの思考も信じない、という立ち位置です。

例えば、クライアントさんが“いつも相手(彼)がウソをついて自分が傷ついて関係が終わる”というテーマでいらした場合、

相手がウソをつく・・・は、事実ではなくて解釈ですね。その人はどんな相手の言動を“ウソをついた”と解釈したのか知るためには、“彼は実際なんて言ったのですか?”と聞く必要があります。

すると、

“火曜日に仕事に行くと言ったのに、行っていなかった。”

というお返事。

私は年中日程を間違えるので、私なら“日にち間違えたのかな?”と解釈してしまうでしょう。

しかしこの人が“彼がウソをついた”と解釈した理由は、“私はすべてを正しく把握していないとダメ”→“把握していないということは、頭が悪いという意味”→“頭が悪い私は生きていけない”という思考のストーリーが潜在意識にあったからです。

なので、自分が把握している事実と違うことが起きていることが許せなかったのですね。

でも、“頭が悪い私は生きていけない”というストーリーが解体された時、その人はその思考の同化から自由になり、また、彼がウソをついているという投影も落ちるんです。

ここで、いつも“でも相手は本当にウソをついているかもしれないじゃないか?”という質問を頂きます。

もし相手が本当にウソをついていても、反応がぜんぜん違います。ストーリーに支配されていると、“このウソつき野郎~~!!!”となるかもしれません。一方ストーリーがなければ、なんでウソついたの?と話し合いができるかもしれませんね。

究極的にはどちらもストーリーですが、後者のほうがはるかに穏やかなストーリーです。

しかし、私たちは普段これをストーリーとしてはみなさず、真実、事実として捉えています。深い眠りの状態です。

自分の中にたくさんのストーリーを“真実”として握りしめ、ストーリーに同化しながら知識を深めても、ストーリーが私たちを夢にとどまらせてしまいます。

しかし、自我は自分を見たがらないもので、たいてい意識が外にいつも向いています。

ので、自分の握りしめているストーリーにはほぼほぼ無関心です。それよりも瞑想や何か(外からもらうもの)が真実へ導いてくれないかと「やり方」を知りたい!みたいな。

ちなみに自分の気づいていない潜在意識のストーリーを知るために、私は「気づきの問いかけ」を使っています。

基本、皆さん、“難しい、使い方がさっぱり分からない”とおっしゃります。

でも難しい理由は、「中立で透明な立ち位置」を忘れて、ストーリーをそのまま聞いてしまうからです。

あらゆるストーリーを鵜吞みにしない、シンプルだけどものすごく難しい。

自我の長年の自然な行動(ストーリーに同化し、ストーリー上で考える)に相反する上に、ストーリーという楽しく、苦しく、エンターテイメント性たっぷりの世界から離れる、ある種のつまらなさ。

ここまで書いて、真実を知るには、自分の無意識のストーリーを知ることが必須だね、と書いているわけではありません。

すべての人にすべての人の道があり、様々な目覚め方があるでしょう。

しかし、私たちはどこかで自分のストーリー(思考)を手放す準備がないといけないかもしれません。

そして、トニー・パーソンズがリチャード・シルベスターの耳ともとに“I wish you die soon.あなたが早く死にますように”とささやいたように、最終的にストーリーだけではなく、自分そのものを明け渡し、真実の中へある意味死にいく準備が必要なのかもしれません。

それは肉体の死という意味ではまったくありません。肉体の死は、始まりがあって、終わりがある自我のストーリーですね。死んだり、目覚めたりする誰かをあきらめるということ。

個の消滅♪

小波が小波であることをあきらめるということ。

そして、小波は大海となる♪

 

 

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持ち主のいない苦しみ♪

おそらく自我にとって一番ショッキングなことは、思い、感情、感覚、体はあるけど、それを所有しているはずの自分がいないと分かることかもしれません。

ノンデュアリティと癒しのカフェでは、皆さんに“自分”を探してもらいますが、今まで見つけた人はちなみに一人もいません。

思いの中にも
感情の中にも
感覚の中にも
体の中にも

どこにも所有者は見つからないんです。

また、私の思い、私の体とあたかもそこに主体や所有者がいる感覚がありますが、もし本当に主体(=所有者)がいるなら、思い、感情、感覚、体がなくなっても、そこに所有者が残らないといけないですよね。

でも、やっぱりどんなに探しても見つからない・・・・。

つまり、主体なしに思いがあって、感情があって、体があるんです。

例えば、カフェで一人座って窓の外を見ながらコーヒーを飲んでいるとして、

そこに経験者としての誰かはいなくて、

外の景色を見るという経験

カフェ内外の音を聞くという経験

コーヒーを味わうという経験

考えるという経験

これらの経験が経験主になしに起きている。

つまり、私が世界を見ているという二元の世界観はそこで崩れ去り、
見ると見られるは分けられず、一連の様々な現象が起きていて、そしてそれと気づきの意識も分けられない。

・・・・・・・・・・・・・。

さぁ、今あなたが抱えきれないと思っている苦しみがあるとしたら、“私の”という思いをちょっと緩めてみませんか?

それが誰のものでもないとしたら?

苦しみについているストーリーもあなたのものでなければ?

そもそもそれを持っている所有者がどこにもいなければ?

胸の奥に感じる固いものも

鼻の先につんと感じる悲しみも

お腹に感じる重く深い絶望も

“私の”という思い込みから解放してしまったら?

あぁ、そうそう、所有から解放しようとしている動きもあなたではなくて、

そして、ただ、気づきの意識にあってみたら?

ゆっくり深い呼吸をして、そこにくつろいでみたら?

・・・・くつろぎタイム♪・・・・

あなたは、思いでも感情でも感覚でも体でもなく、

あなたは、あなたの人生を生きるというストーリーでもなく、

それにずっと気づいている意識

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目覚めるために大切なこと♪

おそらく、真実に目覚めるために最初に大切なことは、ある意味あたり前過ぎるけど、意外におざなりにされていること。それは、自分が眠っていると真に自覚することなのかもしれません。

そうでない限り、眠りの中での目覚めストーリーを追い求めてしまうと思うのです。眠りを自覚するとは言い換えれば、自分がどれだけ思考にはまっているのかを真に知ってみることです。

インテグレイテッド心理学では、いつも「事実と解釈」を分けるエクササイズをします。多くの人にとって分かりにくいことは、例えば「メールの返事がこない」「子供が歯を磨かない」「私には子供がいない」が事実ではなく、解釈であるということです。

ここはほとんどの人がクエスチョンマークを飛ばしまくります。しかし、ここでいう事実とは思考をすべて横に置いたときの「ありのまま」を指しています。

このとき、「~~がない」は、どこにも存在せず、唯一自分の頭の中にあるだけです。

つまり、自分の頭の中にしかないことと実際にあるものの区別を私たちはほとんどしていないんです。

一瞥体験をしたとき、椅子という概念を通さない椅子の姿は、見事にありのままで美しく、完ぺきでした。

ですが、私たちは見るもの、聞くもの、感じるものすべてを定義づけ、解釈し、世界を思考によって分かりやすいものにしていきます。そして、それが事実となって動き始めますね。

また、自分に対しても「私は~~だから、能力が足りない」「~~だから、私はバカだ」というように定義づけていきます。そして、それは紛れもない真実であると信じてしまいますね。

でも、自分に関するありのままの事実は「私がいる」、終わり、です。それ以外の私についての思いはぜんぶ頭の中にしか存在しないですよね。

でも、これも多くの人にとっては、いやいや私は男だ、女だ、日本人だなどは、明らかに事実でしょう、とゆずれないかもしれません。

またセッションでは、それがいかに事実、真実かを数々の証拠(通信簿がオール1だったとか、彼に振られたことしかない、誰かにバカだと言われたなどなど)を差し出してくる人もとても多いです。

しかし、通信簿オール1は本当にバカなのか?、深く考えていくと、バカの定義がいかにあやふやか分かるはずです。

ので、頭が悪い私、女として魅力がない私、バカな私などなどは、思いとして頭の中に存在しているだけなんです。実際、その思考が一切なくても自分はそのまま存在していますよね。

これはある意味、ものすごく自明で、ものすごくシンプルな話ですが、この話自体が多くの人にとってわかりにくく、実感が伴わないものでしょう。それぐらい私たちは頭の中にしなない思考にはまり、頭のストーリーの中を生きていきます。

あまりにそのストーリーにはまりすぎているため、椅子を椅子と見ない圧倒的なリアルさにはほぼ気がつけないものです。

ましてや、ストーリーに感覚や感情が伴い、体にも組み込まれていけば、そちらのほうが圧倒的にリアルに感じられ、私たちは全身全霊でストーリーにはまってしまいます。

でもそのストーリーが悪夢になってきたとき、ある意味私たちの意識は目覚めに向かっていくのかもしれません。

いずれにしても、「頭の中にしかないもの」と「実際に起きていること」を徹底的に区別してみることが目覚めの第一歩となるのでしょう。

そして、私たちの本質とは思考によって決して定義づけることのできない、生まれては去っていく思考に気づいている意識であり、夢の中の私ではない、実体の私。

深い静寂♪

PS: 日常生活の中で解釈するなとかそういった薦めではまったくありません。例えば、誰かが虐待を受けているは、解釈だ~などとせず、早急に対応することが大切ですよね。(空即是色)

 

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一瞥体験よりも求めたいもの♪

一瞥体験に関する下記のようなご質問を頂きました。↓

エックハルト・トール氏もプロフィールに一瞥体験が記載されています。全ての方ではないですがプロフィールに同じような内容が紹介されます。なぜでしょうか?そして経験(一瞥体験)が去った後は?読者や探求者は、必ずこれに引き寄せられますが・・・。

私の場合はすべての始まりであり、発信する中で自然な感じがするからです。(記載しないと何かを隠しているみたいで不自然な感じ)他の方は分かりませんが、それを目指すものとして書いているわけでもないと思います。

一瞥体験に関してある意味危険?なところは、私も見事に陥りましたが、“あの体験をもう一度”となってしまうことです。または “あの状態が続くことが悟りだ”と勘違いしてしまうことです。

せっかく真実を掴んだのに失ってしまった・・・と私は本気で思い込んでしまいました。また、その後人生の意味を見失って、虚無に陥る人も多いですね。

しかし、有難いことにロンドンには非二元のお話会が頻繁にあり、ティーチャー達によって私の勘違いは比較的早く是正されました。

体験というくくりで言えば、一瞥体験もバンジージャンプ体験もある意味で同じです。体験はすべて過ぎ去っていき、一瞬一瞬変わり続け、そして一瞬前にあったものは消えていきます。何一つとどまることはなく、つまり、実体のないものです。

一瞥体験もそうです。始まりと終わりがあります。私の大きな勘違は、必ず変化し、終わりがある経験や状態というものに永遠にとどまっていられると思ってしまったことです。

しかも、分離した個である私が(笑)。ですが、ぜんぶ丸ごと大きな勘違いでした。

というのも、存在の本質は不変であって、失うこともができず、つねにここにあるもので、そして分離した個が決して留まれるものではなく、捉えることがまったくできないからです。

ですので、大切なことは去って消えていく体験ではなくて、

“決して去らないものは何か?”という問い、

そして、

“そもそも体験者はいるのか?”という問いです。

自我は特別な体験、とくに悟り体験のような特別体験に憧れる傾向があります。ですが、もし求めているものが、去ってしまう体験ではなく、不変の真実なのであれば、一瞥体験という遠回りをしなくても良いかなと思います。

ちなみに私の先生であるルパート・スパイラさんは、一瞥体験をしておらず、一瞥体験は目覚める条件というわけでもないんです。

真実はいまここに否定しようがなくすべてに浸透しています。たどり着くものでもなければ、ここにないものを見つけ出したり、得るものでもありません。

なので、探求はどこかに向かうのではなく、いまここへの探求、そして意義ある疑問は、“今ここにある真実がなぜ見えないのか?”でしょう。

このブログでもそこを強調しているつもりではあるんです。ただ、書き言葉に限界がありすぎますが・・・。

とりあえず、体験というつかめるものではなく、あらゆる体験に気づいている、決して捉えることができないもの。いまここでそれを探してみませんか?

 

☆☆☆オンラインお話会について☆☆☆

この度は予想以上にお申し込みを頂き、また動画販売のリクエストもありがとうございます。

動画販売に関しまして、当日参加のようにやりとりができないこともあり、個人的には価格を少し低く設定すべきだ(したい)と考えています。しかし、当日参加できない方も、すでにお振込みを済ませた方も多く、現段階で2種類の設定で申し込みし直して頂くのもかなり煩雑になると判断いたしました。そこで、動画販売の価格に近付けるため、4回のお話会を同じ価格で5回やることに致しました。(*^_^*)

つまり、動画販売もいたしますので、またお知らせさせてください♪