生きる意味や価値を失ったとき

自我を支えているものって何だろう?

と、いきなりこんな問いから始まりますが、例えば、生きる意味、生きる価値、いきがい、目的といったもの。

これらは確実に自我にとって存続するための支えであるはずです。

なので、一瞥体験で自己の不在が分かって、虚無に陥る人もいますよね。自己の不在が分かった瞬間に、自我(=思考)が何もない意味のなさを解釈してしまうからです。

個人的にも何かの出来事で苦しんでいたときより、何も起きていないけど、生きる意味を失っていたほうがうんと苦しかったなぁと思います。

仕事に不満はないけど、いきがいや希望を見出せない、食べていけてはいるけど、なんで食べていかなければいけないのか分からない。

以前にも書きましたが、当時ベストセラーになっていた「存在の耐えきれない軽さ」という本のタイトルが、なんだか図星すぎて心に痛かったことを覚えています。

だから当時は生きる目的、意味、いきがいを必死で探していたものです。

ただ、当時の私が完全にスルーしていたのが、自分の本質だったのです。(個の)私がいて、私の人生があって、そして終わり・・・という認識だけ。

なので、自分が立っていられる何かがどうしても必要。そして、願わくは、立っていられるだけじゃなくて、良い人生でありたい・・・。

必死で求める意味、価値、目的。ところが、意味を見出した途端、今度はその意味を維持しなければいけない、実現させなければいけない、失ってはいけない。

何年も経って、抱いていた夢が実現していなかったり、または、自分が思うような形に人生がなっていなかったら、希望、期待の喪失とともに、いつの間にか生きる意味も消えて行ってしまいます。

それはうっすらと満たされない感覚として現れ、必ずしも本人が自覚しているとは限らないでしょう。

でも、その満たされない感覚は、また何かを求める衝動となり、ふか~いところでしっかり自我が思っているのは、

欲しいものを得ていれば幸せな人生、得ていなければ意味のない人生・・・。
期待通りになっていれば幸せ、そうでなければ生きる価値がない人生・・・。

ということ、ある意味分かりやすいですね。

引き寄せが流行るのも分かります。

でももし、こんなふうに求めて、得て、または得られなくて、求めて、得て、そして失って、そしてまた求めて・・・みたいなゲームにあきてきたら、グッドニュースは、ちゃんと抜け道があるということなんです。

抜け道とは、自分固有の人生への意味や価値を手放し、あるがままにあること。

手放すとは、文字通り、握りしめていた手を開いて、放すこと。ゆるめること、リラックスすること。捨てようと頑張ることではなく。

また、あるがままとは、絶望している自分のままとか、そういうことではまったくなく、ほんと~にあるがまま。

自分や自分の人生を思考やストーリーを一切通さずに「ただある」こと。ストーリーのないところにあること。

あらゆることが起きていて、すべてがあるけど、ストーリーだけがない「あるがまま」。

ただそこにあり続ける。

そのうち内側から狂おしいほどの叫び、こんなはずじゃなかった!何もかもが嫌いだ!憎い!ずっとずっと苦しかった!・・・、そんな自我の叫びが聞こえてくるかもしれません。

たくさんの涙が流れるかもしれないし、怒りや悲しみが通り過ぎるかもしれない。

自分がどれだけ自分に期待と否定の両方を持ち続けていたのかも分かるかもしれない。

でも、なにもせずにただそこにあり続ける。

おびただしい量の思いや感情を持った「“私の”生きる価値、目的、意味」がほんとうにストーリーだと分かるまで。

ストーリーだけど、それは実は自我そのもの(自我=ストーリー)であって、決して否定するものではなく、ただ手を放しただけ。グーで握りしめていた手を広げるかのように。

そしてそれは、目覚めの始まり♪ 抜け道へのスタート地点。

こう書くと、“目覚めて、そして生きる意味がなくても楽に生きる方法”というハーツ―として聞いてしまう人もいるでしょう。そしていつの間にか、悟って楽になる私を目指すストーリーを生き始めてしまう。

究極の抜け道、逃げ場への道順は、そういったストーリーもなく、ただあること。

何の期待もなく、ただ静かに。

自我にとって物足りない場所が、いつか優しさを帯びてくるまで、
ただあってみる。

生きているのは「私」じゃなくて、「生命」であると見えるまで。(*^_^*)

 

PS:そして、今度は生命の「衝動」があなたを動かす♪

PSパート2:今何らかの喪失感や絶望感で苦しんでいる場合は、セラピーの方が早いでしょう。

☆☆☆

大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ
【日時】2017年5月26日(金)18時半~21時
【場所】ハートンホール日本生命御堂筋ビル
http://hall.hearton.co.jp/nissei/access
【参加費】5000円
【申し込みフォーム】
https://ws.formzu.net/fgen/S19064975/
【大阪・問い合わせ先】若下かおり nondualseminar@gmail.com

会場側の都合で広いお部屋に変更となりました。
ので、申し込みだけして当日払いでも大丈夫です♪

ノンデュアリティは人を救うの?

悟りやノンデュアリティは人を救うのだろうか?

実はこの問い自体がとっても自我目線ではあるけど、お釈迦さまの旅もそこから始まったわけで、自我の永遠のテーマなのかもしれません。

でも一方で、“ノンデュアリティは人を救うものではない”というメッセージも耳にすることでしょう。で、それはある意味まさにその通りです。

ノンデュアリティ(真実)は人を救うのではなく、人から目覚めさせるものですね。

自分がどう生きるのか?ではなく、自分という夢から目覚めるんです。

私の苦しみを和らげるものではなく、“私の”苦しみから目覚めさせるんです。

“私はなんだか生き辛い。(生きる意味って何?)”

“私の体はこんなふうになってしまった。(どうして自分に起きたの?)”

“私の人生はまったく思った通りになっていない。(私の何がまずいのだろうか?)”

“恋愛の執着が手放せない。(自分はダメな人間だ)”

“経済的な不安を抱えていてストレスだ。(なんだかんだ言ってお金がないと・・)”

“病気の家族の介護が大変すぎる。(なんて人生なんだ!悲しい・・)”

“最高の医者でも、自分の病気を治せない。(どこにも救いはない、絶望・・)”

これだけ情報社会になっても、こういった問いに答えてくれるものは、今でもやっぱりどこにも見当たらないでしょう。

とりあえず、自己啓発やスピリチュアル、宗教、そして、ノンデュアリティ・・・。

でも、ノンデュアリティは、人を救うものではないと言われる・・・。

ですが、真実がもしこういった問いに手を差し伸べるとしたら、それは、すべて100%いつも受け入れられているということ。

あぁ、それなら知っている、何度も聞いた、目新しくない・・・などと自我は言うかもしれません。

でも、その無条件の受容は徹底的に静かなまま、有無を言わせず、真実だけが持っている圧倒的なパワーを見せてくるのです。

その受容のパワーに触れたとき、自然と抗う心は落ちていき、すべての緊張を手放して良いんだということが分かるでしょう。

私たちは、苦しんでいるとき、人生がうまく行っていないとき、深いレベルで自分や自分の人生をものすごく否定しているものです。

そして、その否定の下に“本当は幸せでありたい”という一縷の望みを持っているでしょう。

否定することも、幸せでありたいと願うことも、自我にとって当たり前の思いであって、もちろん悪いものではなく、というか、愛おしい声たちです。

それらの声をひたすら理解し、受け入れていると、もしかすると、聞こえてくるかもしれません。一番望んでいるのは、自分を明け渡すことだったと。

そして、そのとき握りしめていた一縷の望み中に、大きな緊張を自分がずっと抱えていたことにも気づくかもしれません。

自分や自分の人生がかかっている大きな緊張。自分の人生を良いものとしたい。愛おしく、健気な望みでもあり、でも同時に、握りしめすぎて苦しみともなる。

でも、もうそれも手放しても良いのだと知るでしょう。

あらゆる出来事も感情や思いもすべて、何一つ悪いことではなく、起きてはならないことなど何一つもない。

運命論でもなんでもなく、どんな苦しみも100%受け入れられていて、そこに操作しようとか、変えようとか、なんの判断もなく、ただものすごい受容の海がある。

それを目の前にして、“どうしたら良いのだろう?”という問い自体が落ちて、サレンダーという「答え」の中に転げ込むのでしょう。

問題が消えることもなく、あらゆる感情も湧き、様々な思いが横切る。でも、それらはもう明け渡されているんです。

私のものでもなく、誰のものでもなく、本質にゆだねられる。

それは個の夢の終わり、目覚めの始まり♪

PS:いつも書いていますが、今どうしても苦しいという場合は、セラピーをお薦めします。ぎっくり腰の痛みをノンデュアリティでどうにかしようとしないのと同じ。(*^_^*)

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東京ノンデュアリティと癒しのカフェ

満席、キャンセル待ち募集中

日時:6月4日(日)13時半~16時半
場所:あうるすぽっと3F (有楽町線:東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/index.html
参加費:5000円
申し込フォーム
https://www.form-answer.com/applications/4BKXF

すべてを忘れてみる♪

先日のノンデュアリティと癒しのカフェでの会話から思ったこと・・・。

悟った人、悟りを得るなどなど、「悟り」という言葉が発せられるとき、たいてい人は「悟り」についてのなんらかのイメージを持っていると思うのです。

そのイメージに自信があるかどうかは別にして、自我はいつもなにかイメージしたり、定義付けしたり、つかめる物にしてそれを追っかけるという性質がありますよね。

ノンデュアリティのミーティングでも、まず自分が何を目指すのか明白にしてから目指そう・・・という思いが無意識に走っていることもあるかもしれません。

とにかく「つかめる何か」や手がかりがないことには、自我はただ佇んでしまうのでしょう。(実はそれがグッド♪)

中には非二元警察と呼ばれる(笑)、悟りとは~~だ、自己の不在とは~~だ、非二元とは~~だと、ばっちり定義付けがされていて、それと少しでも合わないことを言っている人にピッピーッと笛を吹く人もいるでしょう。

ですが、イメージしたり、定義付けをしてしまうと、私たちが求めているものは、いつの間にか真実ではなく、そのイメージ、定義づけられた状態(空の状態、私がいない状態、常に平和な心の状態、思考がない状態、etc)になってしまいがちです。

でも、真実は何か?という質問を真剣に自分に投げかけてみると、分からないというのが正直な答えのはずなんです。

その正直さをベースにしたとき、探求は、なんらかのイメージや定義を追っかけるものではなく、分からない何かへ心が大きく開かれていくはずですね。

ちなみに、ダイレクトパスとは思考や概念を一切通さず、いまここにあるものをただ観察するもので、求めている何かはここには要らないんです。

思考や概念は、例えそれが正しかったとしても、結局、何かを追いかけるという今までとまったく同じ自我のパターンにはまったままであって、しかも、“私は分かった、見えてきた”というストーリーに組み込まれてしまったりします。

幸せになる、状況を変える、自分を変える、悟りを得る、引き寄せる・・・すべて何かを得よう、掴もうという行為ですね。ある意味自我はこれしか知らないんです。人生疲れるはずだ。

でも、もし、本当に求めているものが、捨てた先にあったとしたら?

もし今、自分が知っているすべてを捨てなさい、何もかも!

自分が人間だとか、男だ女だとか、自分の名前もすべて!

と言われたら?

なにか怖い感じがしませんか?

寄って立つ場所がない気がしませんか?

でも、どれだけ捨てても、どうしても否定できないものがありますよね?

経験の波、あるという感覚、気づいている意識・・・・

そこにただあってみるんです。

知識や概念、思考ではなくて、そのどうしても否定できない何かにゆだねること。

これが真実の入り口ですね♪

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東京ノンデュアリティと癒しのカフェ

5月は満席となりました。6月のカフェの日程はこちら↓

日時:6月4日(日)13時半~16時半
場所:あうるすぽっと3F (有楽町線:東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/index.html
参加費:5000円
募集は、GW後に始めます♪

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EFTプラクティショナー講座

指二本あればできる感情解放のツール♪

安心、安全、でもとっても深い。

ゴールデンウィークに少人数で学べるチャンス♪ 

愛とはネガティブを十分に感じられる場♪

明日から熊本へ行ってきま~す。ということで、ノンデュアリティと被災地における心の癒し。(なんか論文のタイトルみたいだ)

究極の観点からは、誰もいない、癒す人もいない、ストーリーはすべて幻想となるわけです。

なんとなく、ノンデュアリティのメッセージを発信している人は、ところかまわず「起きることだけが起きている」と振れ回っているみたいな誤解があるかもしれません。

ですが、そんな概念だけ振りかざしても、被災地に行けば、それが役に立たないどころか相手を傷つけてしまうかもしれないことはすぐに分かりますよね。

究極の真実であっても、それを概念化して言葉にして押し付けてしまったら、もはや害にしかならないことが多いものです。

では、そんなときは真実をすっかり忘れて、ただストーリーに埋没しておくのが良いのでしょうか?

お話会でも、ヒーラーやセラピストさんから“自分の仕事に意味はあるのか?”というご質問をそれなりに頂きます。

でもその葛藤は、メッセージを頭で捉えていて、ハートで捉えることを忘れていることから来るのかなと思うのです。

アジャシャンティなども話しているように、ハートの目覚めやお腹レベルの目覚めなど、自我が真実に目覚めていく様相はいろいろでしょう。

主体と客体の幻想が落ち、「私とあなた」「私と机」「私と景色、音、匂い」ではなくて、ぜんぶが「I AMのわたし」であることが露わになったとき、ハートは勝手に緩み開いていきますね。

分離した自分を外界から守ろうとしていたハートが、全体性に開いていくんです。

そして開かれたハートを通して起きていることを見たとき、概念に邪魔されない言動というものがあり、概念に邪魔されない知恵というものがあります。

それは頭から生まれてくるものではなく、言葉なしに静かに見せてくれる智慧です。

例えば、愛する人を失って悲しんでいる人がいれば、その人の悲しみは受容されていて、その人は悲しんでいて良いのであって、悲しみをすぐさま取り除く必要がないことが見えてくるでしょう。

でも、つい私たちは、その人が悲しんでいるのを見ることが耐えられなくて、十分に悲しむことを許してあげる前にどうにかしようともがいたり、または、他の人を苦しませたくないと自分の悲しみを呑み込んでしまったりもするかもしれません。

でも、ハートはとてもシンプルで相手の悲しみも、それを見ている自分の苦しみも受容していて、十分に感じることが許されていて、そしてそれが成し遂げられる安心な空間がそこにあります。

ハートは、寄り添って、ただそこにいて、受容と安心な空間で支えてくれるんです。それは、すべてはすでに癒し(愛)の中にあるという真実の海なんです。

それが見えれば、あとは本質の流れに従って、悲しみは違うものに変化し、自分が何かに支えられていることが感じられるでしょう。

ただ、ネガティブな感情でいっぱいになっている自我にとって、その安心さや受容を見ることはかなり難しいものです。そもそも苦しんでいる理由が、ネガティブな感情に抵抗しているからで、その抵抗を握りしめながら、受容という正反対のエネルギーを感じるのは至難の業です。

なので被災地などででは、EFTを使って、セラピストが安心安全な空間を作り、トントン軽く経絡をたたきながら、感情を感じきってもらいます。

真実(愛)は、すべてに浸透していて、あらゆる形になりますね。人をなでる優しい手、強く引っ張っていく手、支える言葉、押す言葉、優しい眼差し、ゆるがない眼差し・・・・。

緩んで開いたハートを通して、その人なりの個性、その人なりの才能(ヒーリングでもセラピーでも、パン屋でも会社員でも)で現象というストーリーの中で真実の発露となれば良いのかなぁと思います。

さて、一か月を切ってしまいましたが、5月7日(日)東京でノンデュアリティと癒しのカフェを開催しま~す。宜しかったら気軽にいらしてください☆

ついにで、EFTの宣伝もさせてください。(*^_^*)

今回は少人数です。じっくり教えてもらえるチャンスかも!

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東京ノンデュアリティと癒しのカフェ

満席になりました。ありがとうございます♪

日時:5月7日(日)14時~17時
場所:CTW表参道
http://www.cultureomotesando.com/access-map/
参加費:5000円
お申込みフォーム

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EFTプラクティショナー講座

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安心、安全、でもとっても深い。

ゴールデンウィークに学んでみませんか?

“ある”が分かれば、“ない”が分かる♪

ある意味よく分かりますが、ノンデュアリティ=「私はいない」のように思っている人もそれなりにいるようで、「私がいない」状態になれば良いのだ~と思っている感じのご質問をけっこう頂きます。

でもたぶんこの発想だと、状態や感覚を追い求める勘違いに陥ってしまう可能性大です。

「私がいない」であれ、「空(くう)」であれ、ある状態になるとか達することを目指すと、どうしても「そのようになる誰か」が前提となってしまいます。まぁ、たいてい自分。

また、私が私がいない状態になれば良いのだ・・・というのがすでに矛盾しすぎていますよね。私がいないのを私が確かめるみたいな。

でも例えば、ラマナ・マハルシにしても、エックハルト・トールにしても、彼らが示しているものは、“あなたはアイデンティティを間違えていますよ~”ということなんです。

つまり、なくそうとしている「私という感覚」は、体や思い、感情に付随しているものでもなく、またそれらに制限されているものではなくて、気づいている意識そのものなのだという理解です。

その理解が起きたとき、きゃっ、ここに誰もいないの!まじ~っ、コワッ!というのが見えてきますよね。

“Who am I? ”という有名な問いは、ダイレクトパスの始まりとも言われています。つまり、私は体だ、私は日本人だ、私は人間だ、私はセラピストだ、私は女だ・・・・というアイデンティティが本当に「私」なのか、ダイレクトに見ていくんです。

それらのレッテルをすべて取り去ったら、何が残るのか?

そこには切れ目のない経験の波と「私という感覚」だけがあるはず。(経験者はいなく)

そして、そこで終わらせず、「私という感覚」にただ留まる。「あるにただある」
これはまた、ニサルガダッタの先生が伝えてくれたこと。

つまり、まず真のアイデンティティを確立すること。

そうすれば、自己の不在も時空の幻想、主体と客体の幻想もあらゆることが自ずと見えてくるはず。

そして、あるにあり続けるとは、空(くう)にぼんやりとあり続けることではないことは一秒もしないうちに分かりますね。

空(くう)は、現象で満たされたダイナミックなエネルギーであって、時がないところにあらゆることが起きていて、それが止むことがない。

あらゆる現象がすべて自分であって、何も知らないものはなく、自我のハートが自然に緩んでいく。

ハートが緩んで開いていけばいくほど、「色」の微細さ、深さ、摩訶不思議に圧倒され、いかに何も分からないかが分かってくる。

と、同時に最も身近な自分の思いや自分の気持ちもその摩訶不思議さの一部であって、謎と永遠性に包まれた愛おしいもの。

“私がいないって分かれば、嫌な感情を感じないはずだ”という思いもそこではもう意味はなく、怒りも沈んだ気持ちもショックも摩訶不思議なダンスの現れ。

とはいえ、ここで気をつけなくてはいけないのは、“すべてはダンスなのさ~~”という言葉で、自分という豊かで深い「色」の現れをバサッと無視しないことですね。

つまり、自分のユニークで複雑な心の存在をきちんと見つめ、ケアしてあげること。

空(くう)の目線だけで、色である心の動きをないがしろにしないこと。ねじ伏せないこと。

空は色を含み、色は空そのもの。

空を確立すれば、そこは色で満ちた世界で、色を深く見つめれば、そこには空しかない。

どこまでも終わりがなく、すべてはただ不可思議な愛だけ。

あぁ~~、ただそれだけ。(*^_^*)

 

※ウパニシャッドをまた訳してみました♪→★

☆☆☆☆☆☆

ご覧頂いた方も多いと思いますが、動画をアップしました♪

気軽なノンデュアリティトーク・パート1

気軽なノンデュアリティトーク・パート2

大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ、会場が広くなりました!

気軽にいらしてください♪

4月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは、満席となりました。

5月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは一般募集いたします。

(ブログにも近々アップいたします!)

※一度お申込みいただいた方は、ご案内を差し上げます。

今後の開催案内ご希望の方は、こちらからお申込みください。

いにしえがあなたの耳にささやく真実♪

今回は、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ウパニシャッドを訳したので、それをご紹介させてください♪

あるきっかけで禅を覗いたらとても面白く、そうこうするうちにインドまで辿りついてしまいました。古典は、今まであまり興味がなかったのですが、読んでみるとシンプルで素朴な匂いがなんともたまらない。

読むというより、吸い込むみたいな感じ。

私の解釈などいらないかも~ですが、書いちゃおう。

私たちは自分が見ている、聞いている、話している、考えている、呼吸していると思っているけど、そこに主体(経験者)はなく、一切捉えることができない「それ」がその経験そのものなのだよね、ということです。

自我にとって分かりにくいことは、自分が経験していないのなら、「それ」が経験しているんじゃないのか?と、どこまでも主体を想定してしまうことかもしれません。

また、自我は経験している対象物、音や景色、思考、言葉に囚われすぎ、例えばそもそも「見る経験」など「経験」そのものがあることを見過ごしがちです。

または、物質主義的な考え方が深く刷り込まれているので、脳が捉える、目が見ているという発想から抜けられないかもしれません。

でも、脳や目は主体ではなく、臓器であって、それを活かしている生命がそもそもありますね。

また、いまここにあるものをダイレクトに見つめてみれば、あらゆることはあるけど、経験者だけが存在しないことが見えてくるはずです。

気づいている意識があって、(経験に気づいている意識)
経験があって、(見ること、聞くこと、考えること、感じること・・・)
経験されるものがある。(風景、音、思い、感情・・・)

そして、さらにダイレクトに見ていけば、音と聞く経験は決して分けられず、気づいている意識とそれらも分けられない。

気づいている意識=経験=経験されるもの=「真の私」

ここには意識しかない
ここには経験しかない

そして、

経験されるものはすべて幻想(色)。

だから私はすべてであって、そのどれでもない。

真の自分は、意識そのもの、経験そのもの、存在そのもので、そして同時に気づいている。(being and aware)

真の自分は、体に制限されないもの。決して消えてなくならないもの。そして唯一思考でも目でも、耳でも感覚でも捉えられないもの。

つい長くなってしまいましたので、ウパニシャッドはこちらからどうぞ!

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ご覧頂いた方も多いと思いますが、動画をアップしました♪

気軽なノンデュアリティトーク・パート1

気軽なノンデュアリティトーク・パート1

大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ、会場が広くなりました!

気軽にいらしてください♪

◎4月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは、

今回キャンセル待ちの方に優先案内させて頂きます。

優先案内希望の方は、3月のカフェに一旦お申込みください。

マインドの苛立ち、それは真実への道♪

私たちが“分かった”というとき、二種類の“分かった”があると思うのです。

一つは、言葉によって説明され、それを頭でなるほど~と分かった、というもの。

これは、マインドにとって極上に気持ちが良いはず。

すっきりした!目からウロコが落ちた!分かった!そうか!

もちろん、目にウロコを貼ったままよりはきっと良いでしょう。

でも、反対につかめない、分からないという場合。マインドは非常に落ち着かないはず。

“起きていて起きていないって?どういうこと?どう見えるの?”

(なんとかつかみたい、分かりたい、分からないもやもやが気持ち悪い・・・。)

“私がいない”ってどんな感じ?どういう状態?

(つかみたい、つかめれば、そこを目指せるのに!)

マインドは何かをつかむことしか知らないので、つかめないものも必死につかもうとします。

なのに、ノンデュアリティが示しているものは、唯一つかめないもの。

マインドにとっては悪夢ですね。

そこでマインドがしてしまうことは、“たぶん、こういうことだろう”、“こういう感じだろう”というつかめるイメージを作り上げてしまうこと。

そして、いつの間にかそれを追ってしまう・・・。

でも、もう一つの“分かった”があると思うのです。

それは、頭を経ない理解。

例えば、夕陽が照らされる空の美しさにうっとりしているとき、その美しさは頭で捉えられているのでしょうか? または、マインドを通らないダイレクトな体験的な理解?

ダイレクトで深い理解であるほど、説明するのが難しくないでしょうか? または、言葉にすると、なんだか虚しく感じられないでしょうか?

私たちが“言葉にならない”というとき、実は頭の理解よりもうんと深く“分かって”いませんか? 全身で捉えていませんか?

マインドは追いついていないけど、全身で分かっていて、自分と感動の間に距離もまったくない。

悟りたいという言葉と真実を知りたいという言葉は、微妙だけど大きな違いがあると思うのです。

悟りたいという場合、悟りとはこういうもの、こういう状態というイメージがあって、それを得たい、そうなりたい・・という感じ。

そうであれば、悟りたいと言いながら、マインドがつかんだイメージを追っかけているだけですね。空の境地に達したい、苦しみがない状態になりたい・・・・。

でも、 “真実を知りたい”と言うとき、何が真実なのか分からないから知りたい、真実がなんなのかさっぱりイメージもできない、知らない状態を受け入れているオープンなスペースがそこにあります。

自我=マインドといって良いほど、自我にとって何かを理解する、イメージするということは、息するほど自然なことでしょう。

でも、そのマインドの癖の延長線上で真実を知ろうとするのは、いつまで経ってもマインドの輪の中。

知識やイメージをすべて捨ててみたら?
未知の世界へオープンになってみたら?
なにも分からないことを受け入れてみたら?

マインドにとってこれは恐怖でもあり、怒りにもなるでしょう。

なぜなら、マインドにとって蓄積された理解は、進歩であり、成長であり、真実へ近づいている証拠だから。それはまた拠り所でもあって、大切にしてきたものだから。

もちろんマインドは人間の夢には欠かせないツールであって、気づいている意識が生み出す魅惑的なダンス、タペストリーの一部。決して悪いものではないですよね。

それでも、マインドが満足しているということは、夢の中にいるということ。

すべてを捨てて、ただあってみる。

存在のありようをダイレクトに見る。

マインドが欲求不満に陥って、崩壊し、あきらめたところに、真実が優しく佇んでいるかもしれません♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

東京ノンデュアリティと癒しのカフェへの多数のお申込みをありがとうございます!

今回キャンセル待ちになられている方々みなさんメーリングリストに入れさせて頂きました。
次回の先行案内をお送りさせて頂きます。
(不要な方は、お手数ですが、nondualseminar@gmail.comまでお知らせくださいませ)