幻を生き抜く♪

ときどき忘れてしまうことは、
私はいつも夢を見ているということだ。

この夢はあまりにリアルで、夢を見ているという実感さえまったくない。

自分がいて、人生があって、大切な人がいて、自分だけの思い、情熱、記憶があって、
これが夜寝ているときと同じ夢だとは、とても思えないから。

でも、真実はささやき続ける。

あなたは夢を見ているのだよと。

私の愛する人たちが幻だというのか?
私が人生をかけて作り上げてきたものもすべて幻なのか?

自我の中で悲しみや怒りがこみ上げてくる。

真実はささやく、

あなたの夢は生命の発露そのもの。
形は実体のない幻であっても、生命である気づきの意識は実体そのものだ。

すべての人生、すべての出来事、自分に関わるすべてのこと、あらゆる形が、
この気づいている意識の中を通り過ぎていく。

一分前、一秒前の自分はもうどこにもいない。
今の自分も常に変化する時の流れの中にしかいない。

留まっているものは何一つなく、
気づいている意識だけが、気づいている意識が作り上げる夢を見ている。

夢は流れ続け、気づいている意識は常にそこにある。

私の愛する人たち、私が作り上げた人生、

執着を手放してごらん、
あなたの夢(人生)は、もっと自由に軽くなるだろう。

生命の流れにゆだねてごらん。
そうすれば、すべてが最初から最後まで讃えられていたことに気づくだろう。

自我は目覚めながら、自分の夢を全力で生きていく。

そして、最後に何も起きていなかったと、心から微笑む♪

そこにすべてを愛した、愛だけを残して・・・。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ開催♪

【日時】2018年10月13日(土)18時15分~20時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
【参加費】4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6TYFT

“私”を動かしているもの

私たちは普段、何の疑問もなく、「私の思い」、「私の感情」、「私の体」という言い方をしますよね。

あたかも、「私」がそれらを所有しているかのように。

でも、純粋に観察をしてみたら、その所有者である「私」はほんとうにいるでしょうか?

真剣に探してみましょう。。。。。。。

どうしても見つからないはずなんです。

つまり、自我(自分)とは、所有者のいないある特有の体、特有の思考、特有の感情の合体物ですね。

一つ一つの花がユニークであるように、ユニークな一つ一つの自我。

でも、所有者がいないなら、何がこの体、思い、感情を動かしているのでしょう?

自我は思考や脳に高い価値を置いているため、脳の機能だと考えがちですが、ほんとうにそうでしょうか?

であれば、人とAI搭載のロボットの違いは基本的に全くないわけですね。

でも、ほんとうに人とロボットは同じ?

おそらく大きな違いは、意識があるかということ、生命のエネルギーが流れているか?ということでしょう。

ロボットは自分が何をしているのかを把握しているでしょうか?もちろんしていないですよね。

私たちが自分が何をやっているのか、何を考えているのかを把握できるのは、それを見ている意識があるからですね。(思考が思考を見ることはできない)

また、新しい生命を誕生させるているものは、生命のエネルギーであって脳が生み出しているわけではありません。(脳は生命のエネルギーによって生み出された)

つまり、自我(私たち)を誕生させ、動かし、そしてその動きや変化を捉えているものは、生命のエネルギーと気づいている意識です。

そして、その二つをよ~く見つめていくと二つは同じもの。

でも、気づいている意識は気づいているだけであまねく存在し、一切形ももたず、徹底的に静かで、まさに「空」。なので、決して捉えることができません。

一方、生命のエネルギーは常に様々な形を生み出し、変化変容し、見えたり、感じたり、聞こえたり、捉えることができる、まさに「色」。

そこに思考がやってきて、あれは鳥だ、あれは建物、あれは~~、これは~~、宇宙は~~~、悟りとは~~とレッテルを貼ったり、区別したり、定義づけたり、そしてだんだん、将来の不安というまだ現われていないもののストーリーを作ったり、または、抽象的な概念を作り上げていきます。

そのうちにあたかも思考がすべてを捉えることができる、真実を知ることが出来るはずだと錯覚し始めます。(だから悟りも理解によって到達できるはず・・・)

しかし実際は、思考は生命のエネルギーの一つの形に過ぎず、一日でも膨大な思考が現われ、消えていきます。また、思考を観察できるということは、それは主体ではなくて客体ですね。

生まれては消えていく観察される側の客体が、常にあって分離のない全体を捉えることはできるでしょうか?

思考という有限であるものが、無限を捉えることはできるでしょうか?

思考が現れて消えていくのが分かっているのは、気づいている意識ですね。変化が分かるとうことは、常にあるものがあるからです。

では、どちらがより真実を知ることができるでしょうか?

現れては消えていくもの?

または、常にあるもの?

よ~く観察してみませんか? 思考を通らないただ純粋でダイレクトな観察を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考が静まったとき、いつもそこにあるもの、ものすごく静かで、すべてを受容し、ただあるだけ、在って気づいているだけの本質が顔をだしてくるでしょう。

だから、古今東西の悟りのマスターたちは、思考のない沈黙の大切さを教えてくれるのでしょう。

ということで、まずは頭の中のおしゃべりを横において、「ただ在って」みませんか?

これ以上になく最高にシンプルに。

「ただ在って」みる♪

You are what you are looking for.

右手を見ているのは誰?

右手を見てください。

いえ、バスの中の風景ではなく(それでも良いですが)、右手です♪

それを見ているのは誰でしょう?

恐らく99.9%の人が自分だというでしょう。

私が私の右手を見ているよ、と。

それが多くの自我の勘違いなんです。

右手を見ているのは個の自分ではなくて、気づいている意識です。

ノンデュアリティ(=悟り)の探求をしている多くの人が、右手を見ているのは自分であるという前提で、その自分がいつか「私がいない」状態になる、無の境地になる、真の自分になると考えています。

そのために思考の観察とか瞑想とかやるのだ!と。

でも、保障しますが、その前提ではいつまで経っても「頑張っている自我」がいるだけでしょう。皮肉ぽくてごめんなさい。

私が毎回毎回しつこくご紹介している、14世紀ドイツのマスター・エックハルトの言葉、「神があなたを見る目は、あなたが神を見る目と同じ。」

神が神を見ていて、この世に神しかいなくて、だからすべては神の遊戯♪

これはスピリチュアルなメッセージであると同時に自然科学です。

見たままを言っている言葉です。

ということで、見ている自分を分解してみましょう。

見る機能の目がある(肉体)
見ていることに気づいている意識がある(気づいている意識)
見たものを「右手だ」と判断している思いがある(思考)

この中のどこに個の自分がいるでしょうか?

頭で考えないで、観察して探ってみてください。

ちなみに、このように思考を介さないで観察することがダイレクトパスなんです。

この観察をしても、多くの人が、それでもどうしても個の自分がいる感じがする。。。と言います。

その「いる感じ」をよく観察し、分解してみてください。

ほんとうにそこに「個の自分」がいるかどうか。

ということで、これは夏休みの宿題です♪(ウソ)

個の自分がいないと本当に腑に落ちたとき、

カミングホームとは、今と違うところ(高次の世界、無の境地、あの世など)に帰るのではなく、私(気づいている意識)がいつもいつもいたことに気づくこと。(思い出すこと)

自分は家から一度も離れていなかったと気づくこと。

皆様、良い週末をお迎えください♪

 

PS: 思考の観察も瞑想もお薦めですが、それは違う状態を目指してやるのではなく、ただ純粋に「見る」、「座る」というシンプルなものが良いですね。

世界を把握しているのは?

ノンデュアリティがある意味分かりにくいのは、どうしても私たちは「自分がいる」ことが前提で理解しようとしてしまうためかもしれません。

そもそも“自分がいることが前提になっている”という文面自体、多くの人にとって???なはずです。

でも、このブログはノンデュアリティ好き?が読んでいるはずなので、そこは今回省いてしまおう。

しかし、自分がいることが前提になっているということは、言い換えれば「物質主義」が前提になっていることと同じなんですね。

なぜなら、自我が捉えている「自分」とは、基本的に「体」を指しているはずだからです。私の体に私の意識がくっついていて、私の思いや感情がある。

隣の人にも体があって、その人にもその人固有の意識、思い、感情がある。体にそれらがくっついている。

もっと言えば、脳がそういった働きをしている。脳が世界を把握しているのだ!

でも、脳も体の一臓器であって物質ですよね。

ので、これは脳という物質が物質でできている世界を把握しているという100%物質主義的世界観。

ちなみに、脳という臓器(物質)がどの段階で意識を持ち始めたのか?は、科学のハードプロブレム(Hard Problem)と言われ、仮説が存在するだけで、まだ解明されていません。

ところが、1世紀前にすでに量子学の父と言われているマックス・プランクは、すべてはエネルギーであり、そこからすべてが創造され、そしてエネルギーとは純粋意識であると述べています。

つまり、世界は物質で成り立っているのではなく、エネルギーだよ~という物質主義からエネルギー主義への始まりです。

一方で、細胞学や意識の研究などからも、もしかすると脳ではなくて、consciousness(←全体意識を指す)に情報(思いや感情や記憶など)があり、脳はそこから情報を得ている受信機なのではないか?という研究が生まれてきています。

この発想は、ユングの集合意識、エックハルト・トールのペインボディなどとも、とってもしっくりいきますよね。

私の場合でも、セラピーをやっているとかなりの確率で前世が出てきますが、これだと説明がつくなぁと思うのです。もし、脳にすべてが保存されているのであれば、脳は死んだときに土に帰るだけですから、保存された記憶もなくなるはずです。

とはいえ、人類はまだまだ物質主義の観点から世界を把握しようとしているでしょう。しかし、もし人類がエネルギー主義へと移行すれば、科学でも医学でも飛躍的な進歩を遂げるのではないかと思います。

ですが、この観点のなかでも、やはり「自分はいる」んですね。

では、古今東西の悟りのティーチャーらが伝えているものはというと、観察者もいないし、自分もいない。

世界も幻想であって、純粋意識があるのみ。終わり。

宇宙が純粋意識でできているのではなく、純粋意識が宇宙である。一見、ひっくり返して同じことを言っているようですが、この違いは100億光年ぐらい違います。

前者は物質を出発地点に考えている観点ですね。

純粋意識が世界であり、純粋意識のみが世界を把握している。観察者はいない。

あなたの人生を見ているのは、あなたではなく純粋意識。

あなたの夢を見ているのも、あなたではなく純粋意識。

ということで、いつものフレーズに戻れば、

神があなたを見る目は、あなたが神を見る目と同じ。

または、

あなたは、あなたが求めているものである。

もう一つ思い出しました。

世界(宇宙も)は幻想である。
ブラフマン(純粋意識)だけが、実存である
ブラフマンは世界である。

The world is illusory;
Brahman alone is real;
Brahman is the world. 

そしてほんとうにこれで最後。マックス・プランクの言葉。

科学は本質の究極の謎を解くことはできないだろう。
なぜなら最後の分析において、私たち自身がその解こうとしている謎の一部だからである。

Science cannot solve the ultimate mystery of nature.
And that is because, in the last analysis,
We ourselves are a part of the mystery that we are trying to solve.

これだけ書いておいてなんなのですが、一番大切なのは頭で理解しようとすることではなく、ここに現れているありのままを深く見つめ、それに気づいている意識に寄り添っていくことでしょう。

練馬は爽やかな日曜日です。

良い一日をお過ごしください♪

 

☆☆☆☆☆☆

ハートレジリエンス協会ショートセミナー

2018年6月23日(土)14:00~16:30
あゆかの部屋(オープンセッション)

心のしくみ、苦しみなどについてのお話し、
そして参加者の方にライブのカウンセリングをいたします♪

◇内容◇
詳細はこちら↓
http://heart-resilience.com/number/shortseminar-201806
◇場所:弘済会館(最寄り駅:四谷)
http://www.kousaikai.or.jp/hall/access/
◇定員:80名
◇参加費:6,000円(ペイパル)
【お申し込みフォーム】
パソコン・携帯共用:https://pro.form-mailer.jp/fms/ddd9a98f86117
※開かない場合は、アドレスをコピー&ペーストしてください。

☆☆☆☆☆☆

神のかくれんぼ♪

ルパート・スパイラさんが「Know Yourself」の朗読をしているのを見て、また訳してみたくなりました♪ 同じ本が好きのが密かに嬉しい♪

☆・☆・☆・☆・☆

秘密があなたに明かされたとき、あなたは自分が神以外のなにものでもないと知り、あなた自身があなたが求めていたゴールであったと知るだろう。

あなた自身を取り除く必要もなく、あなたは存在しなかったことも、これから存在しないこともない。

あなたは神の資質をあなたの資質として、神の姿をあなたの姿として、神の内面もあなたの内面として、神の始めをあなたの始めとして微塵の疑いや不確定さもなく見るだろう。

あなたが神になるとか、神があなたになるというような見方もなしに、あなたは、あなたの資質を神の資質として、自分の本質を神の本質として見るだろう。

神の顔以外のものは、外側にあるものでも内側のものでもすべて去っていく。それはつまり、神以外には何も存在しないことを意味しているのだ。

神以外のものが存在したことはなく、あらゆるものが去り、神だけが残る。神の顔以外には何も存在しないのだ。

それは、あることをそれまで知らなかった人が、それをただ知るのと同じようなことだ。知ってその人の存在が消えることもなく、ただ無知だけが消滅する。

何か別のものに取って変わることもなく、存在はなにも変わらず、無知だった人が何かを得たり、何かと融合することもなく、無知が消えるだけなのだ。

☆・☆・☆・☆・☆

 

“神”という言葉を、純粋意識、気づきの意識、存在、生命、どんな言葉で置き換えても良いでしょう。

このメッセージの中の“あなた”という言葉も、いわゆる個のあなたではなく、神としてのあなたであるとして読まないと、分離している小さな自分は本当は神なのだという間違った捉え方をしてしまうかもしれません。

ですが、決してそういうことではなく、まさに小さなあなた(生まれて死んでいく)というものは存在せず、神しかいないということです。

また、自我は真実が見えたあかつきには、何かを得ているか、何かが変わっている、違う状態になっていると考えがちでしょう。

進歩があって、到達するという悟りのストーリーです。

でも、まったくそうではなくて、ここに語られているように“勘違い”が落ちるということです。何も変わらず、単に勘違いだけが落ちるということ。

 “自分の本質に留まることができるようになったのですが、何かが起きると心が巻き込まれてしまいます”というおっしゃる方がそれなりにいます。(何を隠そう、私もそんなこと言っていました)

ですが、自分(自我)が本質に留まっている状態を続けられるかどうかではなく、そもそもあなたは自我ではないということです。

エックハルト・トーレも言うようにアイデンティティの間違いですね。

部屋で一人で音楽を聞いているとき、聞くという経験、音楽、沸き立つ思いや感情、記憶、そこにある体、すべてが神そのもの、生命そのもの、気づきの意識のみが存在する。

次の瞬間、腹の立つ言動を誰か家族がしてきたとして、我も忘れるほど反応し、怒りで体が張り裂けそうになって、その人が憎く見えたとしても、それは自我のあなたに戻ったのではなく、神が自身を束の間に忘れたということ。そしてまた神が神を思い出す。(本当の意味では決して忘れないけど)

神が隠れて、神が自らを見つけ、神のかくれんぼ。

すべては神の遊戯。

この世に神以外何も存在しない♪

※Know Yourself : 12世紀から13世紀に生きた、当時イスラムの世界の中でももっとも影響があったティーチャーと言われている、Ibn ‘Arabi / Balyaniのメッセージ

☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ
2018年6月16日(土)14時~16時半
場所:あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
参加費:4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6BKYH

神が見ている夢♪

一度休止したはずのブログですが、再開することにしました♪ といっても、もうしているようなもので、思い出したかのように気楽に続けていきたいと思っています。

☆☆☆☆

幻想のあゆかには、いろいろなニーズがある。

あゆかは快適に住める場所が好きで、それがあゆかの心身の健康に大切だと思っている。

それはそれで、とても愛しいニーズだ。

でも、あゆかがなぜそれを求めるのだろう?と深く見ていくと、本当に欲しいのは、自分が安心できる場所、ここが自分の居場所だと思える場所、そしてそれが本当に見つかるのは、自分の中、本質そのもの自分の中だけだと知る。

外に求めていた意識が自分の中に向き、落ち着きが生まれる。

ところが少し経つと、心はまた外に探しに行く。今よりも良い場所、状況を求めて、思考があれこれ模索し始めるのだ。

幻想のあゆかはこれに気づいて笑ってしまう。

自分の中に留まるよりも、状況を変えたい、環境を変えたい、自分を変えたい。
外に向かった自我のエネルギーは、ほんとうに吸引力に満ちている。

希望、期待、喜び、失望、絶望、悲しみ。
あらゆる感情の波に乗って、自我の人生は「得ること」「変えること」に突き進む。

でも幻想のあゆかは、人生の秘密が少しだけ分かってきた。

この人生のドラマの真の姿を。

“神は私たちにこう伝えた。目は神を見ているのではない。神が神を見ている以外、この世に誰もいないのだ。”
God has informed us in His saying Eyes do not perceive Him that there is no other than He perceive Himself             「Know Yourself by Ibn ‘Arabi / Balyani」

そう、この世でドラマを経験している誰かはいないのだ。そして、すべてのドラマも夢であって、今まで何一つも起きてはいない。

そう聞くと、自我は何もないつまらない世界を想像するかもしれない。

でも、自我が気がついていないのは、個人のドラマの消滅は全体の現れへと変わるということ。

人生の出来事という、タペストリーの一部のデザインだけ見ていた状態から、タペストリー全体が現れ出てくるのだ。

タペストリーの模様は常に変化し、一つ一つは一瞬あたかも存在していたかのように見える。壮大なドラマが一瞬に現れては消えて、一つの悲劇も全体のタペストリーの中に抱えられ、そして消えていく。

幻想のあゆかは自分の人生についてどう生きるのか?どうこれから生きたいのか?と、よく振り返る。それはそれで、とても健気な思いで主体的な生き方だ。

あゆかは、なるべく良い選択をしようと思考を巡らし、将来後悔しない選択、痛い目に遭わないようにと一生懸命考える。

なんといってもあゆかにとって、より良く生き残ることは大切なことだからだ。

でも、幻想のあゆかがどんな選択をしようと、どの生き方を選ぼうと、それはすべて受け入れられ、あゆかの思考が、あることを成功、あることを失敗と判断しない限り、あゆかは常に祝福の中にいる。

すべては最初から許されている。

幻想のあゆかがあれこれ自分を批判し、否定し、後悔している間も、すべてはすでに許されている。

もちろん、幻想のあなたも。

そして、幻想のあゆかもあなたもいないのだから、それは神が見ている夢、

あるのは許し、受容、愛そのものだけ。

それだけが唯一の実体であって、それがあなたそのもの♪

☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ
2018年6月16日(土)14時~16時半
場所:あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
参加費:4500円
【申し込みフォーム】
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あまりに明らかな存在の秘密

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発作的に訳したくなることがあります。ので、今回も発作的に訳しました♪

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

神はどこにも宿っておらず、また神の中には何も存在していない。

神へ入っていくこともなければ、神から生まれ出ることもない。

こんなふうに、学説的な知識や理性、理解や推測、または五感や肉眼、心の目や世界観を通してではなく、

あなたは神というものを知るべきだろう。

神以外、神を見る者はなく、神以外神を知る者もいない。

神は神自身を通して、自分を知り、神は自分によって神を見る。

神以外に神を見る人もいないのだ。

神のベールは、ワンネスそのものであって、神以外に神を覆うものはない。

神が神を覆い、神の存在はどんな条件もなく、ワンネスによって隠されているのだ。 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これは、12世紀から13世紀に生きた、当時イスラムの世界の中でももっとも影響があったティーチャーと言われている、Ibn ‘Arabiという人の本からの抜粋です。(写真参照)

自我はどうしても分離の発想がベースになるので、自分と神との関係も、「自分がいて、神がいる」、「あらゆるものがあって、それは神から生まれた」といったような世界観で捉えますよね。(科学的な観点は一見違いますが、分離ベースなことは同じ)

ワンネスを謳うスピリチュアルでも、基本的には個の自分がいることが前提になっていて、個の自分が全体とつながるとか、全体になるとか、そんなイメージが多いかもしれません。

かつて、奇跡のコースの“この世には誰もいない”という言葉に触れたとき、直感的にここに真実があるとは思ったものの、意味がさっぱり分かりませんでした。しかし、その後ノンデュアリティの教えに深く触れるようになり、私が何かを見るという主体と客体の関係性が落ちたとき、この意味が見えてきたのです。

自分がいないということは、自分の経験を見ているのは、自分ではないということ。気づいている意識しかこの世にはないということ。

これは私がたびたび引用しているマイスター・エックハルトの言葉、

“私が神を見る目と神が私を見る目は同じである”

The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.

ともまったく同じ意味を指しているでしょう。

自我の自分は、自分が世界を見ていると思っているけど、本当は自分は見られている側ですね。

自分の体も、感情も、思いも捉えることができます。

でも、自我の自分から体と思いと感情を取ったら? 自我の私はたちまち存在しなくなるでしょう。

また、体も思いも感情もすべて現れては消えていく変化するものです。

でも、自分の経験の中で唯一変化しないもの、唯一捉えることができないものがあります。

それが気づいている意識ですね。

それを神と呼んでも、空と呼んでも、ブラフマンと呼んでも、なんでも良いわけです。

大切なのはそういった知識ではなく、それが自分だと体験的に分かっていることでしょう。

そのとき、必ず主体と客体の分離した世界観は崩れ、あらゆる質問が落ちるはず。

この世には一つの目しかなく、それはあまりにすべてに浸透しているから、

または、あらゆるすべてそのものだから、

分離の目しかない自我は逆にスルーしてしまう。

だから隠されたワンネス。ワンネスの次元がどこかにあるのではなく、

今ここにすべてがすでにいつも明らかになっていて、

と同時に、自我にとってはそれは存在の隠された秘密。

う~ん、トニー・パーソンズの「開かれた秘密」という言葉はほんと見事だ。

《原文》
He is not in anything and no thing is in Him, whether entering into Him or coming out of Him. It is in this way that you should know Him and not through theoretical knowledge or reason, understanding or conjecture, not with the senses, the external eye or interior sight or perception. No one sees Him expect Himself and no one knows Him expect Himself. Hi knows Himself through Himself and He sees Himself by means of Himself. No one but He sees Him. His veil is His oneness since nothing veils Him other than Him. His own being veils Him. His being is concealed by His oneness without any condition.

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

すでにご存知の方も多いと思いますが、お知らせしちゃいます。

インテグレイテッド心理学開催します♪

2018年5月26日(土)、27日(日)

自分は分離していると信じた時点から、すべての自我に共通する心の動きとはなんでしょう? 私たち全員が日常に無意識にしていることや、あらゆる苦しみのしくみを知ってみませんか?

詳細はこちら