生きる意味や価値を失ったとき

自我を支えているものって何だろう?

と、いきなりこんな問いから始まりますが、例えば、生きる意味、生きる価値、いきがい、目的といったもの。

これらは確実に自我にとって存続するための支えであるはずです。

なので、一瞥体験で自己の不在が分かって、虚無に陥る人もいますよね。自己の不在が分かった瞬間に、自我(=思考)が何もない意味のなさを解釈してしまうからです。

個人的にも何かの出来事で苦しんでいたときより、何も起きていないけど、生きる意味を失っていたほうがうんと苦しかったなぁと思います。

仕事に不満はないけど、いきがいや希望を見出せない、食べていけてはいるけど、なんで食べていかなければいけないのか分からない。

以前にも書きましたが、当時ベストセラーになっていた「存在の耐えきれない軽さ」という本のタイトルが、なんだか図星すぎて心に痛かったことを覚えています。

だから当時は生きる目的、意味、いきがいを必死で探していたものです。

ただ、当時の私が完全にスルーしていたのが、自分の本質だったのです。(個の)私がいて、私の人生があって、そして終わり・・・という認識だけ。

なので、自分が立っていられる何かがどうしても必要。そして、願わくは、立っていられるだけじゃなくて、良い人生でありたい・・・。

必死で求める意味、価値、目的。ところが、意味を見出した途端、今度はその意味を維持しなければいけない、実現させなければいけない、失ってはいけない。

何年も経って、抱いていた夢が実現していなかったり、または、自分が思うような形に人生がなっていなかったら、希望、期待の喪失とともに、いつの間にか生きる意味も消えて行ってしまいます。

それはうっすらと満たされない感覚として現れ、必ずしも本人が自覚しているとは限らないでしょう。

でも、その満たされない感覚は、また何かを求める衝動となり、ふか~いところでしっかり自我が思っているのは、

欲しいものを得ていれば幸せな人生、得ていなければ意味のない人生・・・。
期待通りになっていれば幸せ、そうでなければ生きる価値がない人生・・・。

ということ、ある意味分かりやすいですね。

引き寄せが流行るのも分かります。

でももし、こんなふうに求めて、得て、または得られなくて、求めて、得て、そして失って、そしてまた求めて・・・みたいなゲームにあきてきたら、グッドニュースは、ちゃんと抜け道があるということなんです。

抜け道とは、自分固有の人生への意味や価値を手放し、あるがままにあること。

手放すとは、文字通り、握りしめていた手を開いて、放すこと。ゆるめること、リラックスすること。捨てようと頑張ることではなく。

また、あるがままとは、絶望している自分のままとか、そういうことではまったくなく、ほんと~にあるがまま。

自分や自分の人生を思考やストーリーを一切通さずに「ただある」こと。ストーリーのないところにあること。

あらゆることが起きていて、すべてがあるけど、ストーリーだけがない「あるがまま」。

ただそこにあり続ける。

そのうち内側から狂おしいほどの叫び、こんなはずじゃなかった!何もかもが嫌いだ!憎い!ずっとずっと苦しかった!・・・、そんな自我の叫びが聞こえてくるかもしれません。

たくさんの涙が流れるかもしれないし、怒りや悲しみが通り過ぎるかもしれない。

自分がどれだけ自分に期待と否定の両方を持ち続けていたのかも分かるかもしれない。

でも、なにもせずにただそこにあり続ける。

おびただしい量の思いや感情を持った「“私の”生きる価値、目的、意味」がほんとうにストーリーだと分かるまで。

ストーリーだけど、それは実は自我そのもの(自我=ストーリー)であって、決して否定するものではなく、ただ手を放しただけ。グーで握りしめていた手を広げるかのように。

そしてそれは、目覚めの始まり♪ 抜け道へのスタート地点。

こう書くと、“目覚めて、そして生きる意味がなくても楽に生きる方法”というハーツ―として聞いてしまう人もいるでしょう。そしていつの間にか、悟って楽になる私を目指すストーリーを生き始めてしまう。

究極の抜け道、逃げ場への道順は、そういったストーリーもなく、ただあること。

何の期待もなく、ただ静かに。

自我にとって物足りない場所が、いつか優しさを帯びてくるまで、
ただあってみる。

生きているのは「私」じゃなくて、「生命」であると見えるまで。(*^_^*)

 

PS:そして、今度は生命の「衝動」があなたを動かす♪

PSパート2:今何らかの喪失感や絶望感で苦しんでいる場合は、セラピーの方が早いでしょう。

☆☆☆

大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ
【日時】2017年5月26日(金)18時半~21時
【場所】ハートンホール日本生命御堂筋ビル
http://hall.hearton.co.jp/nissei/access
【参加費】5000円
【申し込みフォーム】
https://ws.formzu.net/fgen/S19064975/
【大阪・問い合わせ先】若下かおり nondualseminar@gmail.com

会場側の都合で広いお部屋に変更となりました。
ので、申し込みだけして当日払いでも大丈夫です♪

生きる意味や価値を失ったとき」への12件のフィードバック

  1. suzu

    あゆかさん
    いつもありがとうございます♡

    自然の中にいる時、「私しかいない」と気づいてから、ナチュラルに本来のわたしでいられる場所である
    自然の中に、ひたすら身を置くことをしてきました。
    体の中を風が通り、自然の中に溶けていく感覚で、そこにいることが、そうあることがナチュラルなのだと感じるようになりました。
    そしたら、生きる意味、生きる価値、いきがいなどが、頭から消えて行きました。
    今は、私の中はとても穏やかで静かです。
    何かを追うこともなく、豊かで幸せに満たされています。
    物質的に何かを得たとかではないのですが。
    時に、物質的な成功をおさめている人を見て羨ましいという感情が湧くこともありますし、喜怒哀楽全て湧いてきますが、スーッと消えていくようになりました。
    どんな自我も徐々に認められるようにもなってきました。(まだ全部ではないですが)、
    長年抱えていたあの苦しさは何だったのだろう?と思います。
    リラックスして、本来のわたしに任せて、自我のストーリーを楽しむ、という感じでしょうか。

    最近は、自我のストーリーに引っ張られそうになるとタイミング良く、あゆかさんの記事がアップされるようになりました(*^^*)
    あゆかさんの記事は、とても心地良いです♡

    更新を楽しみにしています(^∇^)
    いつかお目にかかれると良いなと思います♡

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    1. ayukablog 投稿作成者

      suzuさん、ありがとうございます♪

      書いて頂いたコメントから私も清涼剤を頂きました。(*^_^*)

      力が入らず、でも大いなる存在のままとても良い感じですね。

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  2. 飛翔こそ蘇生

    人間は意味を求めるように出来ている。
    だから「解釈してしまう」
    本当に良くできている。

    意味があるのか意味がないのか、そんな二極の中で
    右往左往し一喜一憂。

    癒しカフェ初参加させていただきました。
    自分ではあゆかさんと雰囲気似ているんじゃないかなぁ
    と思っているんですけど、質問もしなかったし
    挨拶もし損ねたので「二列目に座ってた男性」と言っても
    分からないですよね。

    「非二元ブタ」で即座にイメージしたのは
    知識で肥え太った豚でした。

    説明を聞くと「蓋」だったので
    齟齬や思い込みっていうのも面白いもんです。

    かみ合っていないような気がする質疑応答もありましたね。

    でもまぁ、あゆかさんが言っていたのは
    ブレないズレないシンプルな事なんで
    それに気づけるかが非二元の道筋ですね。

    「気づいているのは誰?」
    「経験しているのは誰?」
    それの段階と意図
    あぁ、こっちのこれで徹底していくのだなと分かりました。
    ダイレクトパスの方法なんですね。

    大海の譬えですけど
    仏教では九識論っていうのが相当します。

    って、知識で思考でいっちゃうと
    ダイレクトパスからそれちゃうんで
    私自身「非二元ブタ」にならないようにしなくちゃと思います。

    ブーブーと攻撃的にならないように。

    あれ?やっぱり「豚」じゃないですか?(笑)

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    1. ayukablog 投稿作成者

      飛翔こそ蘇生さん、こんにちは☆

      お返事が遅くなりました!

      カフェのご参加をありがとうございます♪ もし次回いらしたら、ぜひお声をかけてください!

      あはは、非二元豚と思った方はかなり多かったようです。一層のこと、そういうキャラを作ってしまおうかと・・・・。

      私はある意味ルパート・スパイラの影響が強いと思いますが、ダイレクトの観察がやはり一番シンプルで良いと思っています。

      とはいえ、いろいろ興味はありますので、九識論、今度覗いてみます。日本滞在中は毎日が忙しくてなかなか落ち着けないのが玉にきずですが。

      今後ともよろしくお願いいたします。(*^_^*)

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  3. いっせい

    あゆかさんは、あるがままで居られているのですか?

    思考や、感情、様々な感覚とその印象に、「煩う」ということが起こったり、ウンザリ(倦怠感)したりすることは、もう起こって無い?のですか?

    しかしながら、人間の身で、その知識と、理解の域を出ませんが、究極の事実は、何が起こっていても、あるがままですが、

    この感覚と印象、思考、感情から、いつも離れられ、心が揺るがない人など、存在するのでしょうか?

    また、色々な面で、一般的な?人たちにも、その状態や、その境涯になることは、可能なのでしょうか?

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    1. ayukablog 投稿作成者

      いっせいさん、こんにちは☆

      誤解する書き方だったかもしれませんね。

      いつもあるがままに居ましょうという話ではまったくありません。自我がストーリーなしにあるがままにいるということは不可能かと思いますよ~。ある意味、自我=ストーリーなので。

      自我が何かをしましょうという話ではなく、そこから抜けた場所がありますよ~ということなんです。自我を超えた場所を指差しているつもりなです。

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  4. タケ

    あゆかさん、いつもありがとうございます。

    自我を支えているのも自我。

    電車が遅れれば腹も立つし、誉められれば笑いもします(笑)

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    1. ayukablog 投稿作成者

      タケさん、こんにちは!

      こちらこそありがとうございます♪

      私の中では、それは自我の自然な「反応」かなと思います。ここでいう「支える」とは、自我の存在を支えるみたいな意味です。(生きる意味が見いだせない→生きていても仕方がない→死にたい)みたいな。

      全体的に私の書き方がいろんな風に読めてしまうなぁと分かりました~♪ まぁ、それも良しとしちゃう。ふふ。

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  5. いっせい

    お忙しいなか、ありがとうごさいます。

    そうでしたか、こちらも、自我の思うまま、したいがままに、させていましたので、一時停止をしての、思考を使ったり、気づきがもたらされての、洞察力が鈍くなって来た‘感’が最近します。

    勘違いされたり、解らなくとも、いいやとの、この自我くんの傾向となっていますからかも知れませんね。

    これも、自我くん、自我のセンター的な働きですが、

    久しぶりに、あゆかさんの記事を拝見させていただきましたが、語り口がフワッとしていらっしゃるのに、内容が濃くて、素晴らしいですね。

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  6. みお

    あゆかさん
    こんにちは。
    経験の記憶が湧いて、それに縛られる、ということ(私のものとしてとらえて苦しむ)は、雨が降ってきたことを個人的にとらえて、私にまた雨が降ってきた!と苦しむようなものですか?
    (いまだに理解しようと探求している私がいます! 🙂
    でも深刻にならず、気付いたらただ”気づき”に寄り添うようにすることにしています。あれこれ考えずに。。
    このメッセージだけでも、頭の理解でも、随分楽になりますから。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      みおさん、こんにちは☆

      記憶に囚われてしまうのは、そこにそれなりの感情がくっついているからです。それがなければ、そもそも記憶として現れてこないですよね。で、単に個人的に取っているからだ~と頭で説得しようとするよりも、そこはきちんと見ていってあげたほうが良いかと思います。感情だけではなく、間違ったビリーフなどいろいろあるものです。それらを無視して、非二元のメッセージだけでどうにかしようとするのは(していないかもですが)、無理があるかなぁと思います。(*^_^*)

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  7. みお

    あゆかさん
    こんにちは
    なるほど、ビリーフなども関係しているのかもしれないですね。 どうもありがとうございます!

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