悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

どうしても残ってしまう誤解とは、例えば、

悟ったら、出来事や記憶やあらゆることに囚われなくなる
悟ったら、苦しい状態から抜け出せる
悟ったら、思考をコントロールできるようになる
悟ったら、すべてが明晰になる
悟ったら、ありのままに常にいられる
悟ったら、いまここにいつもいる

これはぜんぶ今と違う状態になるというお話ですね。私もこの幻想(妄想?)に長い間、深くはまっていました。

ティーチャーたちにどれだけ違うと言われても、そして、頭ではわかったと思っていたけど、それでもはまっていました。

自我にとってこの「求める」という行為は、ほんと根深いなぁと思うのです。求めて、得て、そして良い状態になる。決して悪いことではありませんが、それしか知らないというのがたまにキズです。

そのため、ノンデュアリティのメッセージは“りんごは赤いです”みたいなレベルの話であるにもかかわらず、自我改善活動のツールとして解釈されてしまうこともしばしば。

また、自分がどれだけ真実に近づいたのかを、例えば、どれだけものごとに囚われているか、囚われていないかといった「自分の状態」によって図られたり。

自分の状態が基準であったり、自分が楽になることが目的であると、どうしても自我目線のままになってしまうでしょう。

で、自我目線のままメッセージを聞いても、誤解したり、意味が分からなかったり、“結局、二元で生きている自分で良いのさ”とちょっとやさぐれた気持ちになってしまうかもしれません。

もし誰かが“りんごは赤いです。バナナは黄色です。”と言って、それを確かめたければ、一番良いのは、おそらく実際に自分で「見る」ことでしょう。

そのとき、りんごについての本を事前にたくさん読んだり、または、りんごの定義について理解しておく必要もないですよね。

ただシンプルに「見る」ことで、明白に理解されるはず。

同じように、もし「私はいない」というメッセージを聞いたら、本当に「私」という主体がいないのかどうか、たった今、見てみれば良いですね。

私の体、私の思い、私の感情と当たり前のように言うけれど、「私」というそれらの所有者がほんとうにいるのかどうか? それとも、体と思いと感情があるだけなのか? 考えに行かないで見ること。

もちろん、見るのはこれだけではありませんね。なるほど「私」は見つけられないけど、どうしても「(個)の私」がいるように感じる、だからやっぱり「私はいる」ようにしか思えない・・・。

そうであれば、それもまた見てみる。どのへんに自分がいる感じがするの? 顔のあたり?胸のあたり?(体の中は内臓だけしかないし)

では、そこにほんとうに「私」はいるの? それとも最後まで感覚があるだけ?

自我が絶え間なく、“ということは・・・”、“ということは・・・”と、考えてつかもうとするかもしれません。

その誘惑を静かに横に置いて、ただ見る。徹底的に。

そしてどうしても、「私」が見つからなかったら、じゃぁ、一体経験しているのは誰?

それもただ見てみる。

この「見る」ということは、あまりにシンプルなため、求める行為も必要でなければ、何かに到達するというストーリーにもはまりようがありません。

この自我活動が最もないところで見えてくるもの、純粋意識、気づいている意識としての私、それが忙しい自我活動の中でいつも見過ごしていた真実への入り口になるはずです。

やがて真実が腑に落ちて、自分がそれそのものだと分かっても、自分の状態を良くしたいという衝動、自分をすごく気にするという思い、今に抵抗しようとする動き、未消化の蓄積された感情の爆発、さまざまな自我の動きがあるでしょう。

でも、それら一つ一つ、純粋意識によって理解され、あることが許され、そして“あゆかという私”の働きとして捉えられるのです。

あゆかがそれらを捉えているのではなく、受容という本質がそれを捉えている。

だから、“まだ囚われてしまうんです”という思いもなく、すべてはあって良いし、起きていることに抵抗もなく、ただ自然な流れがあるだけ♪

PS:同時に自我解体、自分を見つめて癒しを進めることもおススメ~☆

悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪」への9件のフィードバック

  1. いっせい

    凄いですね。すべて納得ですし、よく分かる解釈です。

    と、このわたしのマインドが感想を漏らしてます。

    これらは、サラッとお描きになられたのですか?

    表現としては、力作、大・名(明)作ですね。私の日頃の思い付きを残したメモ帳にしっかり、写させて頂きました。

    まず、

    >>悟ったら、出来事や記憶やあらゆることに囚われなくなる
    悟ったら、苦しい状態から抜け出せる
    悟ったら、思考をコントロールできるようになる
    悟ったら、すべてが明晰になる
    悟ったら、ありのままに常にいられる
    悟ったら、いまここにいつもいる

    これはぜんぶ今と違う状態になるというお話ですね。私もこの幻想(妄想?)に長い間、深くはまっていました。

    ティーチャーたちにどれだけ違うと言われても、そして、頭ではわかったと思っていたけど、それでもはまっていました。

    ☆この出だしで、きっぱり?明かされて?いらっしゃるのは、私も同じような?ことを経験して来ていますので、同意・同感に思います。

    この間の、私がお伺いしたかったことに、答えていらっしゃるように受け取れて、スッキリします。

    そして特に、

    >>この自我活動が最もないところで見えてくるもの、純粋意識、気づいている意識としての私、

    ☆この、「自我活動が最も無いところ」と、言い切らないところが、他の覚者?や賢人?などに比べて、真実を語られていると、私のマインドが感想を持ってます。

    また、このマインドに、信用していいとの、認識が強化され、プログラム(洗脳)されるようです。(悪い意味ではありません)

    >>純粋意識によって理解され、あることが許され、そして“あゆかという私”の働きとして捉えられるのです。

    ☆ああ、これもよく分かります。

    >>あゆかがそれらを捉えているのではなく、受容という本質がそれを捉えている。

    ☆真我?や本質(自動的な?働き・在り方)を、「愛」や「ハート」と表現せず、「受容という本質」という描き方はには、またまた、私のマインド(ああ、自我ともう、合体してしまっています)が、感嘆してます。

    素晴らしい、幸福感?を、ありがとうごさいます。

    もし、機会がありましたら、

    こんな事にまったく感心が行かない現代人や、世界の人々、、

    そして、霊能者や、神秘家や、超能力者たち、無数のタイプや感性があると感じられます、スピリチュアリストたち、

    YouTubeなどで、情報として真実味があり、かつ、氾濫している?真理には到達しているけど、、脳科学?からの意識や、自我の仕組みや、思い込み、錯覚などのへの解説、解体の説明をされている方々などへの、

    観察・感想などももし、ありましたら、明かされていただけたら、嬉しいですね。。。

    ♡ありがとうごさいます。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      いっせいさん、こんにちは☆

      嬉しいフィードバックをありがとうございます♪

      はい、割とサラっと書いています。ただ、何か書こうかなぁという時間が長いかな。(*^_^*)

      あはは、信用されるより、実践してもらうほうが嬉しいかもです♪

      日本のノンデュアリティシーンは、スピリチュアルとかなり混在しているものが多い気がします。また、肉体の臓器である脳からノンデュアリティを説くのは限界があるかと思いますよ。(個人的にはあまり興味がないかも)

      生まれて去っていくものではなく、それを超えたものをベースにしたいですね♪ (*^_^*)

      いいね

      返信
  2. suzu

    あゆかさん
    こんにちは♪いつもありがとうございます♡
    「りんごは赤い」が分かった時の衝撃と言ったらなかったですよ!(笑)

    エゴは、目に見えるもので自分や人を判断するのに、
    見えないものに怯えてるんだなと、今日改めて思いました。
    父が運転する車に乗っていて、ちょっと渋滞してるようだったんですね。で短気な父が、「(車が)詰まってるかな?」って言ったんです。
    私は、とっさに「ああ、お父さんは渋滞してると思ったんだな。ヤバいぞ、きっと機嫌が悪くなるぞ!警戒しなくては!」と思いました(笑)
    そこではたと気がついたんですよね。父は「詰まってるかな?」と言っただけだったと。笑っちゃいますよね(≧∇≦)

    「りんごは赤い」
    世界は、素敵なメロディーをBGMに見る、美しい絵画のようだと思いました♪( ´▽`)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      suzuさん、こんにちは☆

      その通りですね。過去の記憶に反応してしまったりいますよね。で
      ただ、セラピー的には、反応してしまうしくみを詳しく見ていくことが(反応が苦しい場合)、とっても大切なので、してしまうこと自体は悪くないですが。

      最後の表現とっても素敵です☆ (*^_^*)

      いいね

      返信
  3. umi

    長年、たぶん小さな頃からずっと続く孤独に悩んでいます。
    ずっと、孤独ならもう人生をやめたいと想ったりしています。

    苦しくて苦しくて苦しくて、非二元にたどり着きました。
    これはセラピーで解決される事案なのでしょうか。

    ・五感を感じるとき、わたしはいない
    ・他のことを考えているとき、わたしはいない
    ・わたしがいるというのは、考えているときにだけ生じる考えである
    ・わたしの参照点は、わたしがいることの証明にはならず、それすらを可能にしている『これ』がある
    ・わたしがいるという考えを含める動きは常に変化する
    ・孤独という感触も起こっている動きに過ぎない

    これらのことを日々確認しています
    それでも圧倒されるくらいのこな孤独に耐えがたい思いをかかえています
    助けてほしいです

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      umiさん、こんにちは☆

      孤独感が出てくる心の声があって、それがまだちゃんと聞いてもらっていないんですね。
      基本、孤独を癒すのは、非二元ではなく心理セラピーだと思いますよ。

      一生けん命やっていらっしゃるのになんなのですが、書いて頂いていることは、すべて思考のレベルのワークなので、あまり効果ないかもしれません。

      特に、「孤独という感触も起こっているにすぎない」という確認は、抑圧になってしまい、余計苦しくなりそうです。

      孤独をなくそうとするのではなく、孤独感の声が何を求めているのかを探り、その声を受容してあげたり、セラピー的な方法の方がうんと早いです。

      孤独感があって仕方がない自分が、心のしくみや癒しの知識もなく、自分で孤独感を癒すのは難しいかと思いますので、できれば下記のリンクから誰かセラピストさんを選んで、セッションを受けてみてくださいね。

      OAD心理セラピスト

      ちなみに私がやっている心理セラピーの詳細はこちらです。ご参考までにどうぞ~☆

      癒しのプログラムOAD

      いいね

      返信
  4. いっせい

    >>「生まれて去っていくものではなく、それを超えたものをベースにしたいですね♪」 (*^_^*)

    同感です。

    でも、そうは見えないでしょうけど、もう10年前くらいから、それをペースにして、或いは、気に留めながら、過ごしているんですよ。

    ♡ありがとうごさいます。

    いいね

    返信
  5. ユウ

    あゆかさん初めまして。今年の初めに初めて「非二元」って言葉を知りました。
    それまでスピリチュアル系の先生について学んでいたんですが
    なんだかやることばかり増えて「なんか違うぞ?」と行き詰まっていました。
    以来、本を読んでみたりネットの動画をみたりしていますが、知識で理解しようというクセがあります。
    そこで「観察する」ことについて質問なんですが、
    自分は観察しながら、どうしても考えてしまうんです。
    解釈をつけてしまうというか、そこから何かが分からなければいけない!って。
    どういうふうにやればいいんでしょうか?
    ???分からない・・・

    いいね

    返信
  6. アザリア

    あゆかさん、はじめまして^^

    >この「見る」ということは、あまりにシンプルなため、求める行為も必要でなければ、何かに到達するというストーリーにもはまりようがありません。

    「見る」ということが、どういうことなのかさっぱりわかりません。たとえば、この肉体のわたしだと思っている五感の感覚がありますが、それを「感ずる」ということとは違うのでしょうか?

    非二元の人たちはいつも「見る」という表現を用いますが、その言葉から視覚的に見るという行為に捕われてしまうのですが、いったい「見る」とはどういうことなのでしょうか?

    それがわからないので「見る」ことができません(笑)

    ご教授よろしくお願いいたします。

    いいね

    返信

コメントを残す